私が書くのは、大きなひとりごと

初めて抱いた将来の夢は、作家だった。その頃から本は好きだったけれど、きらきらした憧れがあったわけではない。クラスの友達とも大人たちとも話すのが苦手な私が、唯一できそうだと思った職業がそれだっただけ。お店屋さんも先生も、私には到底できないと感じていた。今から思えば、5歳そこそこにして悟ったところのある子供だった。

それから10年以上、学校社会でもまれるうち、「作家を目指していること」そのものがアイデンティティの拠り所になった。自信のない私は、何か特別なものになりたかった。理系の職業と作家を両立することが、その道なのだと信じた。高校時代、親に笑われて以来、誰にも言わなかったけれど。夢だというわりに、これといった努力もしなかったけれど。

必死の受験勉強を経て大学に合格したのを機に、18歳の私は作家を目指すことをやめた。

才能ないんだから諦めな。
書く時間も読む時間も無駄だから。

18歳や20歳そこそこでも、作家デビューしている人はたくさんいる。それと比べたら、行き当たりばったりの短編を数作書くだけで精一杯の自分なんてたかが知れている。それならば、資格を取ったり勉強したり、少しでも就活が有利になる活動に時間を使おうと思った。……アイデンティティの拠り所を失って傷つく前に、自ら離れようと思った。

あれから10年以上経って、私はまた書くことに立ち戻った。本当にやりたいことを探すなかで、作家への憧れを避けては通れなかったから。いまの私は、これまでの人生のどの時期よりもたくさん書いて、どの時期よりもたくさん読んでいただいている。とはいえ書きたいものも書けるものも、まだまだ手探りだ。書く意味を考えて憂鬱になる日も多い。誰かの時間をいただく価値のあるものを書けるのだろうか……そういうことを考えるとつらくなる。

それでも書くことも公開することもやめないのは、ただ自分の気持ちを伝えたいだけなのかもしれない。

幼稚園ぐらいの頃、誰も私の気持ちをわかってくれないと感じていた。幼稚園児の語彙は決して豊かではない。「たのしい」とか「うれしい」とか「かなしい」とか、口に出せる言葉は、私の想いよりもうんと単純だった。それを満足げに聞く大人たちは、私の本当の想いを汲み取ってくれているように思えなかった。大人たちに合わせて笑いながら、幼稚園児の私は伝えることをあきらめ、孤独を深めた。

今でも話すのは苦手。上滑りしてきつい言い回しをしたり、感情をうまく表現できなかったり、思考停止してタイミングを逃したり。そんな時はいつだって、書き言葉に助けられてきた。出会ったばかりの夫との関係が進んだのは、メールで素直な気持ちを伝えたから。会議の多い部署で信頼されたのは、議事録やスライドをつくって他のメンバーと丁寧に認識合わせをしたから。

書けば、伝えられる。
私にだって。
誰も私の気持ちをわかってくれないと思っていた、あの頃の気持ちだって。

伝えられることを知ってしまったから、通じ合えることの嬉しさを知ってしまったから、私はもう戻れない。かつての私がいた孤独な時間に。

何の役にも立たないのだとしても、自分の抱いた気持ちを書き表したい。共有したい。そして、あわよくば「わかるよ」と言ってもらいたい。

自分本位な理由しかないことに居心地の悪さを感じる。誰かのお役に立ちたい、とか、良い時間を過ごしたと思ってもらえる作品をつくりたい、という想いも確かに持っている。格好のついた理由が欲しくて、何度も何度も書くことにつなげようとしたけれど、まるで上手くいかなかった。私のモチベーションはやっぱりここにしかなくて。

私の気持ちを伝えたい。
本当の気持ちで通じ合いたい。

こうなるともう、開き直るしかない。私の文章は、大きなひとりごと。届ける意図も楽しませる気概もないのだから。

だけど、通りすがりの誰かの心に響いて、話すきっかけになったなら。心の深いところで共感しあえたなら。それほど嬉しいことはない。

だから私はこれからも、人から見えるところでありのままの想いを綴る。あなたと心通じ合える瞬間を楽しみに待ちながら。




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