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祖母とエスティローダーの刻印リップ

8月のまだ夏真っ只中の24日の朝に、急に、少し離れた場所に住む祖母が亡くなった。
祖母は叔父夫婦と暮らしていて、その日は従兄弟も遊びに来ていた。
闘病をしていた訳でも入院していた訳でもなく、前日まで元気に過ごしていて寝ている中での突然の心不全。

前の日には宝くじのスクラッチくじに当たった事を、私の母に自慢の電話をしていたようで
「今日は良いことばかり!こんな楽しい日は無いわ!」と笑っていたと母から聞いた。

こう言う人も多かった。
「あまり苦しまずに亡くなって、しかもとても楽しく過ごした次の日に幸せな最期じゃないか」
85歳、日本人女性の平均寿命から比べて、特段早い死と言う訳でもない。
他人が聞けば、「身内が亡くなって辛いだろうね」と言う感想くらいにしかならないような、特筆するような死でもないのかもしれない。

それでも辛かった。苦しかった。受け入れられなかった。
叔父から訃報を受けて泣き崩れる母の姿を見て、夢であってくれ、こんな辛い時間があるのかと思った。
心の中にポッカリ穴が開いたようで、それは時が流れて悲しみが癒えたとしても、穴は塞がることはないのだろう。

その穴を塞いでくれる、祖母はもう居ないのだから。

祖母は若い頃から茶道に励み、自身の茶道教室を営んでいた。
毎年お正月のお茶会「初釜」に加え、街の文化祭で町民の方にお茶を楽しんでいただくイベントを49年間欠かすことなく催していた。
その他にも、今年の1月には東京で茶道の名誉あるお茶会に参加したり、毎月札幌にきて茶道の新しい知識を学んだり、
85歳にしてとてもパワフルなおばあちゃんだった。
最も、おばあちゃんと呼んだことはなく物心ついた時には
「大ママ」と呼んでいた。
家族の誰が考えたのかは分からないけど、
最後までおばあちゃんとは思えない女性だったので、ふさわしい呼び名だったと思う。

私とは住んでいるところは離れていたが祖母とは北海道内や、東京や大阪や色々な所へ行き、色々なものを見て、色々なものを食べた。
その全てが私の大切な思い出だ。


私は幼い頃から祖母が着物を着て髪をセットし、メイクをして身支度を整えるところをずっと見てきた。
祖母のドレッサーから溢れんばかりの、沢山の化粧品。
ファンデーション、フェイスパウダー、アイシャドウにチークに、その中でも数え切れないほど沢山のリップ。
メイクの最後に、少しローズかかった色のリップをリップブラシで丁寧に塗る姿は本当に綺麗で、小さい子供ながらにとても憧れたものだ。
私の母も綺麗な人だが、メイクは最低限シンプルに整えると言うスタンスの人なので、
作り込んだメイクの仕方は祖母を見て学んだかもしれない。

祖母に憧れ、12歳くらいからはこっそりメイクを始めた。その当時はまだあまり、小学生の子がメイク用品を集めたりするような時代ではなかったので色付きリップから始め、
中学生になってからはお小遣いを握りしめデパートにベースメイクのアイテムを買いに行ったりした。
高校生になってからは本格的にフルメイクをする様になり、祖母と情報交換が出来るようになった。
「これすごく素敵だからあげる」と化粧品をを沢山もらったし、
私からも化粧品や美容に関するものを何度もプレゼントした。

私と祖母は、顔も背丈も性格も特に似ている所は無かったように思えるけれど
「あんたの、化粧が大好きなところは私に似たのね〜!」と言ってくれた事を覚えている。

訃報を受け札幌から車で5時間ほどの祖母の家へ到着したが祖母の遺体はまだそこには居なかった。
事件性は無いとは言え、自宅での急な死亡だった為警察による検視や手続きがあったからだ。
仕方のないことだが悲しいなあ…と考えながらそこからまた時間が経つのを待ち、
家族と共に祖母の遺体を警察署まで迎えに行った。
家に着き、専門の方に遺体を布団に寝かせてもらい、顔の上にかぶせてあった布を外した。
元気な日々の中での死だったので、痩せこけていたり、傷がある訳ではなかったが
勿論呼びかけに応えることはないし、もう息をしていないのだから仕方ない事ではあるのだけれど、
顔が青白くなり唇の色が紫を帯びていた。


ご遺体のケアや身支度は、納棺士の人がやってくれるものだ。
ただ、「納棺士が来るのは明日になるからそれまでの間、軽く化粧してもらっていいですよ」と葬儀社の人が言ってくれた。

ドレッサーにある祖母の大量のメイク用品の中から、一通りのアイテムを揃え、最後に持ち歩き用のポーチを見つけた。

その中にはお茶の生徒さんから貰ったカネボウのフェイスパウダー、ミラノコレクションと、
私が何年か前にプレゼントした
エスティローダーの刻印リップが入っていた。

札幌の丸井今井のエスティローダーのコスメカウンターで、祖母の名前の「Taeko」と刻印してもらったものだ。
このリップは私の母と叔母と、祖母の3人にプレゼントしたもので、年配の女性でも使いやすいローズ系のレッドを選んだ事を覚えている。

「あ、そういえばこんなのあげたなあ」なんて懐かしく愛おしく思いながら

母と一緒に、冷たくなってしまった祖母の顔にメイクを始めた。

ファンデーションで顔色を明るくし、薄く、少し広めにチークを塗る。
眉毛は生前の祖母が書いていたようにうまく書けなかったけれど細めに、長くアーチを描く様に。

そして最後に、紫になってしまった唇に
エスティローダーの刻印リップを塗った。

ローズがかったレッドのカラーを
丁寧に伸ばしていく。

言葉にならなかった。
唇に、色がついただけで
まるで生き返った様に、今にも目が覚めて話しだすんじゃないかと言う様に

記憶の中の祖母がそこにはいた。

涙が溢れて止まらない。
その前からずっと泣いていたけど更に泣き続けた。
こんなにも悲しい時なのに、口紅一本が勇気を与えてくれた気がした。

「ねえ大ママ、メイクってすごいね」そう話しかけながら祖母の唇を見つめていた。

数え切れないほど化粧品を持っているのに
私のリップを持ち歩いてくれていた事を思うと嬉しくて
悲しみの中でも少し心があたたかくなる事を感じた。

私は連絡がマメな方ではなく、離れている時に連絡を取ることは多くなかったと思う。
また来月会えるし〜なんて呑気に構えていた。
離れ離れの家族に比べれば会う回数は多かったが最近は新型コロナウイルスの影響で、祖母の家にも行けていなかった。
先月札幌でご飯を一緒に食べたのが最後になってしまった。
また明日、また来月が絶対に訪れるとは限らないんだと身に染みて感じさせられた。

孝行なんて、何も出来てなかった気がする。
いつもパワフルな祖母に会えるのが嬉しくて私の方が元気をもらっていたから。

葬儀の期間はいろんな親戚に会えたので、
お互いに励まし合う事が出来たが全てを終え札幌の自分の家に帰宅してから実感がこみ上げた。

本当にもう会うことは出来ないんだと。



それでも毎日は続いていく。


祖母に出来なかった事、母や父や、他の家族に少しずつしていこう。
祖母の様にはなれなくても、誰かを幸せにできるような勇気を与えられる様な事を見つけていこう。

そんな、少し強がりな思いを胸に
祖母譲りのメイクが大好きな孫は生きていく。
今日もピンク、赤、オレンジ、ブラウン、ラメが入っている日もある。
唇に、心が元気になる様なとびきり好きな色をつけて。
マスクの下で見えなくても、それがお守りがわりになる。