型とルール(規律)と自由
自分の中でいくつかのルールを作り、それを反復する。
ルールを作って反復して、身体に叩き込む(無意識にできるまで続ける)。
なぜこれをするかというと、ルールを決めと「型」ができて、一連の動作を自動化できるからです。
この型という「思考停止状態」で、いかにバランスを取るか。
思考という意識的なアプローチではなく、無思考という無意識的なアプローチで、あえて”そうなっている状態”を作りあげます。
身体は能動的に反応させて、思考は理性的な状態を保ちます。これがまた難しい。
この2つは共存しています。
いわば、お互いを刺激し合いとんでもないパワーを生み出す「soul mate」のような関係性かもしれません。
理にかなった型の構成にこそ本質があり、身体を部分的に働かせるのではなく、統一体としての働きが可能になります。
しかし、自分のルールの外枠には、組織としてのルールが存在します。
この組織のルール(規制や規律)が他人によって破られることがあります(ルールを破る無秩序タイプ)。
こういったタイプは、基本なんとなくで動き、思考から行動が遅く、行き当たりばったりなタイプです。
その行動により、そこに秩序は存在しなくなり、規律が乱れ、型が活かされなくなります。
型があるから自由が生まれ、ルール(規律)があるから自由が存在できます。
組織が物事を行う上でのルールや制限は、明確にすることが必要です。
ルール(規律)が曖昧だと、目的を見失います。
制限や規律があるから目的のための手段に工夫が生まれ、そのためのスキルが磨かれます。
この地球上というピッチの上に、「完全なる自由」というのは存在しません。
なんのための型で、なんのための制限で、なんのための規律なのか?
その型の道理を頭で理解するよりも、まずは身体で理解し、心で理解することが必要だと思います。
これは、どの世界にも通ずるものがあるはずです。