世界60カ国をひとり旅。齊藤綾乃さんが24歳で遺書を書いた理由
ライターの齊藤綾乃さんは、24歳からの3年間で、世界60カ国を放浪した。エルサルバドルやグアテマラなど、日本人にとって馴染みの薄い国々も訪れ、Facebookで発信した。日本を発つ前には、念のため遺書も残したという。
齊藤さんはなぜ、こんなにも壮大な旅へ出たのだろうか。そして、旅先でどんな経験をしたのだろうか。
絶対に叶えたかった夢
齊藤さんが海外に興味をもったのは、まだ幼い頃だった。きっかけは、海外勤務経験のある祖父が、ディズニーやカートゥーンネットワークなどの海外アニメで英語に触れさせてくれたことだという。
働いて、お金を貯めたら旅へ出る。英語の専門学校を卒業した齊藤さんは、そう心に決めて就職した。毎朝、電車のなかで窪咲子(くぼ さきこ)さんのブログ『世界一周 恋する咲ログ』を読み、旅への想いを募らせていたそうだ。
とはいえ、様々なリスクもある女性のひとり旅。不安や恐れはなかったのだろうか?
「本当にやりたいことだったので、好奇心のほうが大きかったです。『最悪死んでもいい』といったらおかしいんですけど、もちろん防犯対策には気をつけて、あとは自己責任という考えで。怖いから行かない、という選択肢はなかったですね」
移動手段にこだわりが
2014年5月、齊藤さんは日本を発った。訪れる国の数やルートは、あえて決めなかったという。
「行ってみたい国はありましたが、『絶対に〇カ国行ってやる』という、スタンプラリーのような旅にはしたくなかったんです」
こだわったのは、大陸間以外では飛行機に乗らないこと。基本的には交通機関やレンタカー、船を使い、ときには徒歩での長距離旅も行った。
「そのほうが、現地の文化や人を肌で感じられるんですよね。飛行機に乗ってしまうのは、すごくもったいないなって」
「カミーノ(巡礼)」と呼ばれるスペイン・サンティアゴ巡礼路を900km徒歩で旅した 写真提供:齊藤綾乃さん
なかでも、齊藤さんのお気に入りはローカルバスでの旅だったという。バスの中から見える景色や、乗客との出会いは新鮮だった。たとえば、ある発展途上国では、人々がバスの窓に向かって釣り竿で物を売る光景を目にした。たまたま隣に座っていた現地人と意気投合し、国を案内してもらったこともある。
ところが、そのこだわりが故に、危険な思いもしたそうだ。
「アフリカのナミビアをレンタカーで周ったとき、大きな事故に遭ったんです。ナミビアの道路って、舗装されていない箇所がところどころにあって。道の凹凸部分にハンドルを取られてしまったのと、前方が軽い下り坂だったこともあり、車が3~4回転してから転倒したんです」
車内には斎藤さんがいる 写真提供:齊藤綾乃さん
「レスキュー隊が来て、病院へ緊急搬送されました。事故の瞬間って、本当にスローモーションになるんですよね。ほんの数秒の出来事なのに、なぜかいろいろ考える時間があって。幸い鎖骨を折っただけで済みましたが、ぶつかった瞬間に、『あーこれ死んだわ。遺書書いておいてよかった!』って思いました(笑)」
イブラヒムじいさんの教え
齊藤さんがそのおじいさんに出会ったのは、2016年。イスラエルの聖地・エルサレムに滞在中のことだった。
仲間と別れ、一人エルサレムに残った齊藤さん。宿に選んだのは、バックパッカーの間では有名な「ピースハウス」だった。その宿のオーナーは70歳を超えるおじいさんで、「イブラヒムじいさん」と呼ばれていた。
彼はパレスチナの平和活動家で、その活動をさまざまな機関から認められ、国の会議などにも出席する人物だ。
齊藤さんは、ピースハウスに約2週間滞在した。ある日、イブラヒムじいさんにこう聞かれる。
「綾乃は何カ国語を話せるんだい?」
「日本語と英語、スペイン語の3つだよ」
「それなら、綾乃は3つの人格をもっているんだね」
3つの国の文化を学んでいるから、というのがイブラヒムじいさんの意図のようだった。齊藤さんはハッとした。「そういえば私、英語で話しているときのほうがリラックスできる」。白黒はっきりした性格の齊藤さんは、わずかながらも日本で生きづらさを感じていた。英語やスペイン語で話すときは、本来の自分でいられることに気づいたという。
ピースハウスのあるオリーブ山からの景色(手前:お墓 奥:世界遺産のエルサレム旧市街) 写真提供:齊藤綾乃さん
イブラヒムじいさんは続けた。
「綾乃、自分が体験したことを、毎日3人に伝えなさい。するとその3人が5人に伝える。5人が10人に伝える。10人が100人に伝える。100人が1000人に伝える…。そうやって、世界は変わっていくんだよ」
齊藤さんは言う。「ライターという職業を選んだのも、イブラヒムじいさんの教えが心に残っていたからかもしれません」
遺書を残した理由
ところで、私にはひとつ気になることがあった。齊藤さんのお母様は、果たして遺書のことを知っていたのだろうか‥‥‥? 齊藤さんに伺うと、その答えに驚いた。
「むしろ、私に遺書を書くようすすめたのは母なんです。『そんなことは絶対にないと思っているけど、万が一のことがあったらどうするの?普通のお墓に入りたい?』と聞かれたんですよね。そのときは、絶対に死なないから大丈夫と思っていたんですけど、あらためて考えたら、そっか、旅に出るって、親としてそういう気持ちなんだって。私のしたいことを尊重し、応援してくれる母のもとに生まれてよかったと、感謝の気持ちでいっぱいでした。その想いを、遺書に書いたのも覚えています」
旅先で出会った仲間とは、今でも親交が深い 写真提供:齊藤綾乃さん
世の中には、家族に反対されて旅を諦めてしまう人もたくさんいる。自分は恵まれていると、齊藤さんは話してくれた。
娘を異国の地へ送り出すというのは、相当に勇気のいることだ。私は出産前まで、自分が母親になったときの理想像として、「わが子を見守り背中を押す存在」を思い描いていた。けれど、実際に子どもを産み育ててみると、それが決して簡単なことではないとわかる。
もしかしたら齊藤さんのお母様は、娘が夢を語った当初から、「そのとき」のことを考えていたのかもしれない。
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