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106. 大学4年目を迎える僕が、これからの選手たちに伝えられること

僕はついに、大学4年生になった。

時が経つのは本当に早い。つい先日、たくさんの荷物を抱えて大学内の寮に引っ越してきたような感覚すらあるが、それはもう3年も前のこと。初めてアメリカの大学に来て、「英語で物事を学ぶ」という生活に最初は戸惑っていたけど、それも今ではすっかり当たり前となった。

ホッケーチームにおいて、最初右も左も分からない状態だった僕は、いつのまにか最年長の一人となり、今度は新入生たちの参考とされる対象になった。練習の時やミーティングの時でも、「このシチュエーションではこの選手はどう動くべきだっけ?」というような質問をコーチからされることも増えた。

"Returners should know about this"

とコーチはよく言う。「上級生(一年を終えてチームに戻ってきた選手たちのこと)は知っているよね」というような意味だ。それはオンアイスオフアイスに限らず、チームの方針やルールについてもそう。

年を重ねるごとに、チーム内での立場は変わっていった。

そんな中で、先日シニアミーティングがあった。これは、4年生だけでの話し合いのこと。議題は、「チーム作りをするうえでそれぞれどんな形でリーダーシップを発揮していくか」といったものだった。

これは、今だからこそ自分自身が年下の選手たちに伝えられることを考える良い機会となった。最初は「チーム内の若い選手たちに向けてどんなことが出来るか」ということを考えていたが、思考を膨らませているうちに、「もしかした僕の体験が役に立つかもしれない人が他にもいるのではないか」と思い立ち、このnoteを書こうと決めた。

ここでは決して先輩面をするようなつもりはない。

僕は純粋に、このnoteを見てくれているすべての人たち、特に現在大学や高校などで部活に取り組んでいる方々へ向けたメッセージとして、自分が過去3年間で学んだこと、失敗したこと、乗り越えたこと、そして大学ラストイヤーを迎えるにあたっての心境などを正直に伝えたい。この文章を読んで、どう解釈するかは読者のみなさんの自由だ。それでも、せっかく時間をいただいて文章を届けさせてもらうのだから、読み終わった後にネガティブな気持ちになるのではなく、少しでも自分自身のチャレンジやこれからの学生生活にワクワクとした感情を持ってもらえるようになれば、それほど嬉しいことはない。

天才でもなければスター選手でもない僕が伝えられるもの、それは「様々な立場を経験したこと」だ。

試合出場停止処分を受けた人として

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先の見えない日々
僕の大学アイスホッケー生活は、1年間の試合出場停止処分と共に始まった。というのも、アメリカに来る前にチェコでプロチームの試合に出場した記録があったから。当時の僕は全く持ってアメリカの大学でアイスホッケーをするなんてことは考えていなかったので、喜んでプロチームからの召集を受けた。実際、その決断に対して一筋の後悔はない。「チェコでプロになる」という目標をもって日本を飛び出た自分にとって、それは一つの目標を達成できた瞬間だったからだ。ただ、それがNCAAのアマチュアリズムというルールに抵触する(いかなる選手もプロ経験があってはいけない)ということで、1年間の試合出場停止処分ということになっていた。

試合への出場が許されない日々というものを経験したのは、この時が初めてだった。大学入学前、なんとか1年目から試合に出られるようにならないかと、何度も何度もNCAA側と交渉を重ねたが、結局それが覆ることはないままチームに入部した。

「今シーズンは試合に出れない」と決まっている状態は、なかなか不思議なものだった。もちろん練習は全力で行うし、横にいるチームメイトに負けたくないという気持ちを常に持ち続けていたが、セット練習が始まると自分の背番号はいつも一番下に書いてあった。当然のことだ。試合に出れないと決めっている選手を、レギュラーメンバーと組ませて練習をすることはほとんどない。パワープレー、ペナルティキリングと呼ばれる数的有利・不利の状況の練習でも、自分がそこに入ることはなく、常に相手側の動きを模倣したプレイをする役割だった。

そんな中で頭角を現していく同期の選手たち。試合で活躍する彼らの姿を観客席から見続けるだけというのは、正直つらかった。

しかし、そんな中でも僕は希望を失わなかった。試合に出れないことは決まっていたけど、それに対してがっかりしたり気を落とすというようなことは一度もなかった。ただの一度もなかった。

なぜならそれは自分では変えられないことだったし、2年目の来るデビューに向けての準備をする時間を沢山いただいたと考えていたから。チームメイトの特徴、強みや弱み、試合中の監督の様子やチームの戦術など、試合に出れなくても学べるものはいくらでもあった。「この時間が未来に必ず活きるんだ」と常に自分に言い聞かせ、ひたむきに毎日を過ごした。

そんな生活を入学後からずっと続けていたわけだが、10月上旬に予想外の嬉しいニュースが訪れる。それは、11月に行われるヨーロッパで行われる国際大会に日本代表メンバーとして呼んでもらったこと。NCAAで試合に出れる機会がない中で、このような素晴らしい機会を頂けたことに心からワクワクしていた。人生で一番悔しい思いをしたといっても過言ではない、平昌五輪予選以来の代表召集だったこともあり、現実的な目標が出来たことがとても嬉しかった。コーチ陣も、「試合に出れるチャンスが出来て良かった。」と言ってくれていた。

嬉しいニュースはこれだけでは終わらない。ある日コーチに呼ばれオフィスに行くと、衝撃的な話が飛び込んできた。それは、1年間と言われていたNCAAの試合出場停止処分が、半年間に縮小されたという事だった。飛び上がりそうな思いとはまさにこのことだろう。今年は試合に出れないと思っていたものが、12月から出場可能となる。こんな嬉しいことはなかった。

これまで以上に未来の自分に希望を抱いていた自分。しかし、このNCAAでの試合出場許可の話をコーチから聞いた次の日の練習で、ある出来事が起こった。

それは対人メニューをやっていた時のこと。相手からパックを奪おうとして体を当てに行った際、バランスを崩し僕は転倒した。その時、普段味わったことのない感覚、そして強烈な痛みが僕の右足首に走った。

骨折だった。

怪我人として

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努力を続けてきた矢先の大怪我
検査の結果、右足の腓骨(外くるぶしの上部当たりから膝にかけて伸びている骨)が折れていることが分かった。医師に診てもらったところ、手術の必要はなく、ギブスが取れるまではおよそ6週間、その後2~3週間のリハビリが必要になるだろうということで、万全の状態で氷上に戻れるのは約3か月後(翌年1月ごろ)になるだろうとのことだった。

「好事魔多し」とはよく言ったものだ。良いことには邪魔が入りやすい。まさしくそれを体感したような気分だった。

今までひたむきに努力を続けてきて、それが発揮できるかもしれない機会が自分に訪れた矢先の、大怪我。掴みかけていた目標が目の前から遠ざかっていく感覚は、なんとも形容しがたいものだった。

ただ、僕はここでもあきらめることはなかった。というより、「また少し先にゴールが伸びただけだな」というような気持ちだった。今思い出しても不思議に感じるが、練習で転んで猛烈な痛みに襲われた瞬間に、「これは折れてる。代表は行けんな。」と状況を瞬時に悟っている自分がいた。どうしてこの感情が瞬間的に浮かんできたかは今でもわからないが、一つ言えるのは、怪我をした直後には自分に起きた現実を素早く受け入れていた、ということ。今思えば、この瞬間的許容をできたことが、自分が前を向き続けられた一つの大きな要因であったと思う。「自分は怪我をした」ということをまずは受け入れる。起きたことは変えられなくても、今後の自分のアクション、心の持ちようはいくらでも自由に変えられることが出来る。実際、人の体というものは怪我をした直後から回復に向けて動き出している。あとは、自分の心次第。未来を変えるチャンスをもらえただけでも、僕はラッキーだった。

怪我から学ぶことは本当に多い。とにかく毎日が新たな発見の連続だった。普段だったら当たり前に何の意識もせずにやっていることが、出来なくなる。そこで改めて気づいたことが、周囲の優しさだ。チームメイト、ルームメイト、学校の友達、先生、ファンの方々など、数えきれない人たちが僕のことを助けてくれた。

自分のパフォーマンスについても、「この時間を使って弱点を強化しよう」と考えていた。ホッケーが出来なくなったことは確かに残念だけど、逆にホッケーという生活の大部分を占めていたものから解き放たれたことで、新たに取り組むことができたものはたくさんあった。そして常に、「確実に前の自分よりも強くなった状態で氷に戻ろう、そのチャンスをもらったんだ」と言い聞かせていた。

怪我は、成長のチャンスだ。もちろん試合に出れなくなったり、練習が出来なくなることは悲しいことかもしれない。でも、この時間が、今まで以上に大きなチャンスを掴むための準備期間になる可能性だってある。

強がりでもなんでもなく、僕はそう考えていた。そう信じ切っていた。こういう時、どれだけ自分を信じ切ることが出来るかどうかはとても大きな要素だと思う。今できることをコツコツと続けること。それに尽きる。

そのような考えでリハビリ期間を終えた僕は、翌年1月末、ついに念願のNCAA D1デビューを果たした。シーズンは残り7試合のみという状況だった。最初は「今シーズンは出れない」と言われていたんだから、それに比べれば試合に出れる機会が7回もあったというのは幸せなことだった。7試合全試合に出場した僕は、ゴールを残すことはできなかったものの、2試合目で1アシストを記録できた。記録上はただの1アシストかもしれないけど、自分にとっては、大きな大きなポイントだった。

こうして、僕の大学1年目は終わった。

控え選手として

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今年こそという思いと、現実
2年目。NCAA出場停止処分もなくなり、また怪我からも完全に回復した僕は、この1年を「勝負の年」と考えていた。何もできずに終わってしまった昨シーズンとは違い、「今年こそブレイクスルーを起こすときだ」と心に決めていた。体調も万全、2年目ということで環境にも慣れた中での新たな挑戦。昨季のエース選手も抜け、自分がその座を取ると信じていた。自信もあった。しかし、現実は僕の思い描いていたものとは遠くかけ離れているものとなった。そして、それと同時に、今までの人生で最も学びの多いシーズンとなった。

僕が2年目で経験したもの、それは「控え選手」という立場だった。

ちなみに僕は、最初から控え選手だったわけではない。「レギュラーから控えに落ちた」というのが正しい表現だと思う。

シーズン開幕までの練習期間、自分のコンディションはかなり良かった。チーム内でもたくさん活躍できていたし、セットも上の方だった。実際にシーズンが開幕してからも、ポイントこそ残せていないものの(それはそれで問題だけど)、試合メンバーには入っていた。

控え選手になるきっかけとなる出来事は、10月末に起きた。シーズン開幕から7,8戦目くらいのことだったと思う。その日は遠征でアラバマに来ていた。

アラバマとの第1戦では、僕は全く活躍できなかった。シュートを打つ機会もなかったし、試合の後半からはほとんど出番がなく他の選手が僕のポジションに入っていた。

2戦目、試合メンバーが発表される紙には僕の背番号は入っていなかった。ある程度は予想していたことだった。その後、コーチから呼び出されミーティングがあった。

全てを変える一言との出会い
僕が試合メンバーを外れた理由、それは”Tenacity"が圧倒的に足りないということだった。日本語で言うと、「粘り強さ」とか「執念」という意味だ。そういわれて昨日の試合のビデオクリップを見返すと、確かに僕のプレイには「強い意志」が全く感じられなかた。ゴール前でバトルをしなかったり、片手でパックを取ろうとしてたり、パスを貰いたいのか貰いたくないのかわからないようなプレイなども見受けられた。要は、全てが消極的だった。「自分でなんとかしてやる」「俺がゴールを決める」「何が何でもパックを奪う」という一種の覇気のようなものを全く出せていなかった。

その遠征での出来事がきっかけになったかどうかは分からないが、次の週からの練習で僕は5セット目の選手になっていた。これを言うと、突然落ちてしまったようにも聞こえるが、実際は今まで自分が苦手としていたものが「表面化」したものにすぎない。

ただ、このような状況でも幸運だったことがある。それは、僕の課題は「自分の意識で変えられるものだった」ということ。コーチに「お前は下手だからもっと上手くなれ」と言われたわけじゃない。今思えば、自分次第で変えられることだからこそ、コーチも厳しく言ってくれたのかもしれない。

試合メンバーを外れてから一回目の練習。僕は、今までで一番気合を入れていた。5セット目になっている自分の番号を見たときは、一瞬現実から目を背けそうになったが、ぐっとこらえた。「逃げ出してはいけない、大丈夫。ここからだ。」と自分に言い聞かせた。

そして、とにかく”Tenacity"とつぶやいた。心の中でもそうだし、実際に口に出して小さい声でこっそりつぶやいていた。

今振り返るとラッキーだったなあと思うのが、このTenacity"という言葉はすべての要素を包含してくれていたことだ。ゴール前では必ずストップする。リバウンドを何度も叩く。シュートブロックにいく。バックチェックを誰よりもする。フォアチェックはとにかくハードに行き、怖がらず先に身体を入れる。コーナーで足を止めずパックを守って動き続ける。パックを取られてもしつこく身体を使って敵を追い続ける。Tenacityを意識すると、自然とこのようなプレイになっていった。

何かスキル面を変えたわけではない。今までのぬるい気持ちを捨て、全てのプレイに対して全身全霊を込めて本気でやり切った。

こんなシーンがあった。ラッシュ攻撃の練習でディフェンスと1対1の状況になった。パックをもらう前から、相手のことは見ていた。パスをもらった瞬間に敵ディフェンスが前に詰めて来ていたので、パックを敵の背後に投げてそこから足を使ってスピードにのり、思い切り身体を当てに行って競り合った。そこでの戦いに勝利し、その後味方にいい形でパスをつなげることができた。

今までの自分であれば、足を止めてなんとなくの感情でパックを追っていただけで終わっていただろう。ただ今日は違った。とにかくこのまま自分でプレイして、なんとか目の前の敵に競り勝ち、チャンスを作ってやるという絶対的な意思があった。

練習を終えた後、驚くことがあった。
なんとコーチの方から自分に話しかけて来たのだ。

「今日の練習は自分でどう思った?」と聞かれた。「あなたに言われた"Tenacity"を意識してとにかくヘビーにプレイすることを心がけた。先週よりいい練習ができたと思う。」と答えたところ、「何を言ってるんだ。今シーズンの練習の中で1番のパフォーマンスだったぞ!」と言われた。コーチは続けた。「さっきのラッシュの時のプレイも素晴らしかった!ああいうプレイが見たかったんだ。」

素直に嬉しかった。たった一つ自分の中の意識を変えるだけで、プレイも変わるし評価も変わる。それを確信した。覚悟を持った想いは必ず行動となって現れるし、必ず相手の目・心に届く。それはそれはおもしろいほどに。

それと同時に、今までの自分の練習態度がどれだけ甘かったのかということをこの時再確認した。練習が終わった後、正直ヘトヘトになるほど身体は疲れていた。体が重い。でも、これくらい普段から毎日やらなきゃダメなんだ。それが今の自分がこのレベルで評価をもらうため・試合に出るための絶対条件。

今までの自分との決別の時だった。

全てが解決したわけじゃない
Tenacityという武器を身に着けた自分。それでも、すぐにその状況が変わることはなかった。毎日毎日、試合の時と同じように、いや、それ以上の心持ちで練習をしていたけど、一度失った評価を取り戻すことは決して容易ではない。すぐにレギュラーに戻るということはなかった。

シーズン中盤、チームが20試合を終えた段階で僕が出場したのはわずか8試合、そのうちコンスタントに試合に出ていたのは5試合のみだった。そして、たったひとつのゴールやアシストを残すこともできていなかった。

試合に出れない→たまにメンバーに入る→出場時間は極端に少ない→そこで結果を残せない→試合に出れない...というようなループを繰り返していた。

当時の僕は、試合に出れないということに加え、ポイントを残すことが出来ない、という焦りに駆られていた。これは苦しい時間だった。ゴールを決めて飛び跳ねるように喜んでいたらそれが夢で、朝起きてがっかりした状態から一日が始まるということが頻繁に起きるようになった。今思えば精神的にも少しダメージを受けていたのかもしれない。そんな日々がずっと続いていた。

そんな中でも、僕は「いつか必ずこのトンネルを抜けるときは来る。それは明日かもしれないし、来週かもしれないし、シーズン最後の試合かもしれない。でも、必ずその時は来る。自分との我慢対決だ。」と考えていた。

控え選手としている中で、大切なことに気づいた。それは、「控えの中で常に一番になっておくこと」だった。通常、チームには試合に出れない選手が5,6名いる。その中で、トップ選手になっておくこと。これができるだけでも、チャンスの回ってくる確率は格段に増える。誰かレギュラーで欠場が出たり、チームの不調が続いたりしたときに監督の頭の中で一番最初に「試してみようかな」と思い浮かぶ選手。このプレイヤーになっておく必要がある。僕はそれを徹底して心掛けた。そしていつしか、13人目のフォワード(ベンチに入るフォワード最後の一人)としてユニフォームを着れることが多くなっていった。自分でも、控えの中では一番だろう、という確信はあった。

もし、試合に出れないことで悩んでいる人がいたら、まずは自分が超えるべき、勝つべき相手は誰なのかをしっかりと認識することをお勧めしたい。僕の場合は、まずは横にいる控え選手たちだった。

13人目のフォワードとして試合にはちょくちょく出ながらも結果が残せない日々が続いていたわけだが、ついにその壁を超える日が来た。2019年1月26日のことだ。もうシーズンも終盤に差し掛かっていた。

初ゴールの瞬間
強豪ベミジ州立大学との対戦。第3ピリオドのシフト、試合時間は残り5分ほどになった時。監督から、次のシフトで自分の出番がくることを伝えられる。「これが最後だ」。そう思い、何度も「ここで決める。ここで決める」とつぶやいた。自分の出番が来て氷上に乗ってから数十秒後。その瞬間は突然訪れた。相手のベンチ前でパックを奪い、ラッシュに。3-2で一度味方にパスを渡す。ワンタッチでリターンパスをもらった後に、相手が自分に向かってスライディングしてくるのが見えた。それをストップで瞬時に交わした後に肩口へ。それはずっと今まで練習してきた、得意なコースだった。打った瞬間、確信した。「入った。」

そして僕は、初ゴールを決めた。大学入学から約2年越しの得点だった。その数秒後、観客の大歓声と、リンクのサイレンが鳴り響く。自分は思わず片手をあげて、いつのまにか叫んでいた。一気に全身が熱くなるのがわかる。気づくと自分の周りにはラインメイトがいて、思い切りもみくしゃにされていた。本当に夢を見ている気分だった。シーズンが始まってから、ずっと、ずっとこの瞬間を待っていたんだ。ゴールを決めたものにしかわからない、この感覚。

この試合、出番はわずか4回だった。その4回の出番の中で、シュートブロックを2回決めていた。これが大きかった。チームのピンチを救うことが出来たことで、あとからチャンスが回ってきた。そしてそれがゴールにつながった。

次の日、リンクへ向かうと、道行く人や学生のみんなに「おめでとう!」や「ナイスゴール!」と声をかけられた。すごい。1ゴール決めるだけでこんなに変わるものなのか。この地での、ゴールの価値というものを知った瞬間だった。

こうして僕は、ついに長いトンネルを抜けることが出来た。決してこれが最大の目標ではなかったし、たったの1ゴールだけど、その1ゴールは僕にとってものすごく大きな意味を持っていた。そこからシーズン後半はすべての試合に出場し、レギュラーを取り戻した。その間に1ゴールを決め、大学2年目のシーズンは2ゴール0アシストに終わった。

監督とのミーティング
シーズンを終えた後、監督と1対1で話をする機会があった。僕は、正直に自分がシーズンを通して感じたことを伝えた。

Tenacityという言葉、試合メンバーに入れないという経験、シーズン後半はすべて試合に出れたこと、2ゴールで終わったことに全く満足してないこと、13人目のフォワードでいたことにも満足してないこと、来年度は必ずチームのトッププレイヤーになること、などだ。

そして監督は僕に伝えた。

「この一年間、優希はとても成長したよ。このミーティングが始まる前に他のコーチたちとも話していたけど、優希は本当に変わったとみんな口をそろえて言っていた。特にシーズン後半にかけてのパフォーマンスは素晴らしいものだった。だから、たくさん出番を与えたんだ。これは自分で掴んだものだよ。」

そして、コーチはこのように続けた。

「ここからが大切なことだ。本来君には、13人目のフォワードでいてほしくなかった。いるべきではない選手なんだ。優希は、チームのトッププレイヤーになるべき選手のはず。来年は、チームをリードしてきた4年生のスコアラー3人が抜ける。その穴を埋めるのが優希であってほしい。15~20ポイントをとる選手になること。それを期待しているし、優希にはできる力がある。自分の力で、それを私たちコーチ陣にシーズン最初から見せてほしい。」

控え選手としての時間、全くポイントをできない時間、これを同時に経験できたことは僕にとって本当に素晴らしいことだったと今では思う。辛く苦しい時間だったけど、この経験を通して一人のアイスホッケー選手として大きく成長できたと確信している。

今年果たせなかった目標を必ず来シーズンには達成する。そう心に決め、僕は3年目を迎えた。

レギュラーメンバーとして

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大学3年目。このシーズンは、自分のチーム内での立場が大きく変わった。僕は「控え選手」から「レギュラー」になった。

シーズン開幕までのチーム練習期間、かなり良いコンディションを維持できていた。過去2シーズン、思い通りの結果を残せなかった僕は、チームの誰よりも開幕への準備が出来ていた自負があった。ロースター争いでは常に1,2セット目に入り、開幕を迎える段階で自分の立場をしっかりと作り上げることが出来ていた。

そして迎えた開幕戦。僕は1ゴール1アシストを記録した。大学2年目では20試合で2ポイントしかできなかった僕だったが、その記録にわずか1試合で並んだ。正直言って、かなり良いスタートだったと思う。

シーズンを通して主力となるには、最初の数試合でわかりやすい結果を残すことが最も効果的だ。これは今までの経験から分かっていたことだった。僕は、何としてでも、開幕戦で活躍したかった。する必要があった。そして、それを実行できたのだった。

開幕後数試合も、順調にポイントを重ねることが出来た。シーズンの折り返しとなる約20試合を終えた段階で、10ポイントすることが出来ていた。もちろんこの結果に満足していたわけではなかったけど、前期の目標だった10ポイントを達成することが出来たのは一つの成長を実感した瞬間だった。

何よりも大きな変化となったのは、試合出場時間と、守備面での絶大な信頼だった。そもそもこの段階で全試合に出場していたし、昨年度に比べて出場時間は少なくとも5倍、下手すると10倍近くに増えていた。そして、今まで一度も出番を貰ったことのなかった、ペナルティーキリング(4対5などの不利な状況)のトッププレイヤーとして一番手で使われるようになっていた。

これは、身体を張った献身的な守りや、守備面でのポジショニング、スケーティング技術などが評価されてのことだった。こういった小さな出来事の積み重ねが、攻撃面にも活きていたのだと思う。

結果を出すことで起きた変化
チーム内で主力になったことで、周りの接し方も変わったように思う。もちろん、ずっとみんなは僕のことを気に入ってくれてたと思うけど、そこにはやっぱり「試合に出ているヤツ、出ていないヤツ」という見えない線引きが存在していた。試合に出ていないときは、どこかチームメイトが一歩離れているように感じるのだ。それが、試合に出るようになってからは、急激に距離が近くなったように感じた。これは、「信頼度」というものの差なのかもしれないし、試合というギリギリの状況を共に戦うからこそ生まれる特別な感情なのかもしれない。シンプルに言えば、「認めてもらえた」という感覚だった。

結果を出すということはとても難しいことだし、たいていは思い通りにいかないことが多い。ただ、そこを何とか乗り越えた先には確実に違う世界が見える。スポーツにおいては、残酷にも「実力」こそが正義だ。厳しいことだが、勝ち抜いた者にしか見えないもの、感じられないものというのは確かに存在すると思う。それをこの時に思い知った。

とは言っても、僕が見ているこの景色ですら、トップ選手には遠く及ばない。僕がなんとか10ポイントを残した段階で、すでに26ポイントをしている選手がリーグにいた。正直、「それは今の自分には現実的な目標じゃないな」と感じた。

ただ、僕は小さい頃から、圧倒的な差を見せつけられたときほど、自分を奮い立たせる大きなエネルギーが湧いてくる人間だ。昔からずっと、とびぬけた才能を持たない平凡な選手だった。普通の選手がそれをカバーするには、圧倒的に努力するしかない。今までそれを続けてきたからこそこの舞台に来ることが出来た。やることは一緒だった。

「今は無理でも、この先で必ず追い抜く」

常にそう考えていた。

Consistency(一貫性)との戦い
シーズンが終盤に差し掛かるにあたり、僕はある課題に直面していた。それは、試合によってコンディションに大きく差が出ていることだった。この課題は、今に始まったことではなかった。昔から、常に高いレベルでパフォーマンスを発揮するということがなかなかできず、それが顕在化してきていた。それはスタッツを見返せばよく分かる。シーズン開幕後、良い記録を残せていた自分だったが、時が経つにつれポイントのペースはあからさまに落ちていた。もちろんこれには、他チームの戦力が試合を重ねるごとに上がっていったことも関係あるかもしれないが、11月末の試合以降、1月24日の試合まで、10試合連続ゼロポイントという期間があった。この時の心境として、これまでの「焦り」とはまた違ったものを感じていた。

今までだったら、「活躍しなきゃ試合出れなくなる」というものだったけど、この時は「守備面では評価を受けているけど、攻撃面で何もできていない」という焦りだった。もちろん守りの面で評価を受けるのは嬉しいけど、自分はフォワードだ。やっぱりポイントを残せないとムズムズした。

ここで僕は、結果が残せていないその時の状況を客観的にとらえてみることにした。自分は練習を多くこなしていた自信はあったけど、だからといって絶対に点を取れるようになるわけではない。一方で、全然練習しなくても活躍する選手もいる。練習量と結果がそう簡単には比例しないのがスポーツだ。

まず、そもそも僕はなぜ「焦り」を感じているのかということを考えた。そしてたどり着いた答えは、「理想との距離」だということが分かった。「自分は活躍できると思っているのに、それが出来ていないからムズムズする。」

そう言う事だろうと思った。

そこから、さらに考えを深めてみた。焦るということは「自分にできる自信がある」ことの裏返し。つまり、「自分はここにとどまっているような存在ではないはずだ。」と考えることが出来た。いつも通りの無理やり理論だ。それでも、自分を少しでも助けるメンタリティであったことは間違いない。

そして、この焦りの正体が判明したのち、実際に自分が何をすればよいのかということを考えた。結局答えはシンプルで、

「ここから出たいならここで戦えよ」

というものだった。結局今までも、たくさんつまづくことはあったけれど、それをなんとか乗り越えてきたからこそ新たな道が開けた。その場で戦い続けたからこそ、新たなステップに進むことが出来た。だから今回も同じ。そう、自分に言い聞かせた。

前にも書いたが、結果が出ないとき、僕は「いつかこの暗闇を抜ける日は確実に来る」という、ある種の楽観視をしている。これが実は割と大切なのではないかと思う。「今日もダメだった」と考えるのではなく、「このトンネルを抜ける日はたまたま今日じゃなかったようだ。ってことは明日かな?」というような気持ちでいることが多い。参考になるかはわからないし、正しい考え方かどうかもわからないけど、自分はこの方法を信じているし、何度も救われてきた。

結局、大学3年目のシーズンは41試合出場、2ゴール12アシストという結果に終わった。こう見ると、本当に後半にかけての失速が著しいものだった。

この、「シーズンを通して常にハイパフォーマンスを発揮し続ける」ということは今後も必ず必要な能力になる。一流選手と普通の選手を分けるのはこれではないかと思っている。どんなに調子が悪くても、最低限のプレイをこなす。そしてその最低限のプレイのレベルをできるだけ高い位置に設定する。これをできるようにすることは、競技スポーツを続けるうえで特に大切なことだ。

良かった点としては、全試合出場できたこと、そしてブロックショット数でリーグフォワードランキング一位を獲得できたことだ。どんなタイトルであれ、一番になれたのは本当に嬉しいことだった。決して派手なことではなかったが、泥臭く体を張るという自分らしいプレイが数字につながったケースだった。

日本代表を外れたメンバーとして

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大学では、ある程度の成長を感じられるシーズンとなっていたが、僕はこの年に行われた五輪予選の日本代表メンバーからは落選していた。20歳の頃から選ばれ続けていた中で、初めての落選だった。自分にとってオリンピックというものは本当に特別なものであり、人生最大の目標の一つであっただけに、それを達成するための前段階の土俵にすら立てなかったことは本当に悔しかった。

とは言っても、そこに文句や不満という感情は一切なかった。なぜなら、自分は代表チームに呼ばれるだけの活躍をこのリーグで残しているとは思えなかったからだ。日本アイスホッケーが直面している「決定力」という課題に対し、それを解決するだけの結果を僕は持っていなかった。

「常に、絶対に代表に呼ばれ続ける選手」というのは、存在しない。いくら過去に良い成績を残していても、結局一番大切なことは「今どれだけできるか」に尽きる。僕にとってこれは初めての落選だったけど、そこから学んだことは本当に多かったし、このチームに常に呼ばれるほどの結果をしっかりと自分が今いる場所で残していかなければいけない、と思った。代表に呼ばれるようになるためには、まだまだ成長し続ける必要がある。そう、強く感じた出来事だった。

最後に、4年目を迎える人として

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ここまで、自分の大学時代を振りかえってきたわけだが、飛んでもない文量になってしまった。自分の悪い癖だ。書き始めると筆が止まらない。ここまで読み続けてくださっている方々には、感謝の気持ちでいっぱいだ。最後にもう少しだけお付き合い願いたい。

この3年間で、僕は様々な経験をしてきた。走り続けることでいろんな景色を見せてもらってきた。そのどれもが本当に感動的で、愛しくて、かけがえのないものだ。

本当に本当に、貴重な体験をさせてもらってきた。語弊を恐れずに言えば、僕は特別なんだと思う。特別というのは、「選ばれた存在」とか「優れている」とかそういうくだらないスケールの話ではなくて、本当にたまたま、素晴らしい道を歩ませてもらっている。

だからこそ、「この経験をより多くの人に伝えるべきだ」と感じるようになった。だからこの文章を書いた。スポーツで挑戦をしたい人に限らず、自分のやりたいことにチャレンジしたいと考えている人や、何かを変えたいと思っている人、この先に不安を感じてる人、たくさんいると思う。受け取り方だって、あなたの自由だ。これを読んで「凄い!」と感じる人もいれば「たいしたことない」と思う人もいるだろうし、「自分には関係ない」と感じる人もいるだろう。それでいいのだ。

僕は、「この経験を自分の中だけにとどめるべきではない」という、これまた自由な思いから皆さんに届けさせてもらった。僕は、僕の責任をこれからも自分の形で果たしていきたい。それこそが、「特別な道」を歩ませてもらっている人間の大きな責務であると考えている。

さて、大学4年目はどんな一年になるのだろう。このシーズンが終わった時に、果たして新たな道は開けているのか。大学生活を終えたときに自分は何を思うのか。まだ、何もわからない。当然のことだ、未来のことだから。

そもそも、今シーズン試合が行われるかすらまだはっきりしていない。

でも、それはみんな同じ。

先のことがわからないと、どうしても不安な気持ちになることがあるけど、全部がわかっている未来よりは絶対にこっちの方が楽しいと思う。

変えられないことに対して杞憂するよりも、自分がコントロールできることに全力を尽くす。

自分は、まだまだ目標にされるような人間ではないし、まだ何も成し遂げていない。

何度も言うように、僕はずば抜けて上手い選手じゃない。だからこそ、努力で補う。圧倒的な努力で。それしかない。そんな選手がいてもいいと思うし、そんな僕だからこそ、届けられるメッセージもきっとあるだろう。

その姿を今後も貫いていくし、これからの世代に見せていく。

見せ続けていく。

それが自分にできることだ。

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三浦優希




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