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100. 節から芽が出る

皆さんこんにちは。三浦優希です。

まず始めに・・・

今回でついにnote100記事目の投稿になります!嬉しい!これは、普段僕が書いたものを読んでくださる皆さんがいてくれるからこそ成し遂げられたことです。感謝の気持ちでいっぱいです。どうもありがとう!

実はnoteを始める段階で、「まずは100記事、どれも手を抜かずに全力で書ききるぞ」という思いを持っていました。noteを書き始めたのが約2年前の夏ということでだいぶ時間はかかりましたが、自分との約束を果たすことができて、一安心しています。

ちなみに、「100回書いたからここで終わり」というわけではなく、これからもまたコツコツと続けていくつもりでいます。まずは通算200記事が目標かな?今後も、ぜひ僕の文章を楽しんでいただけたらと思います。

大切なことなのでもう一度言います。

ここまで続けてこれたのも、noteを好きでいられるのも、「文章を書こう」と思えるのも、これを読んでくださる皆さんがいてくれるからだということをどうか忘れないでください!読者の皆さんに心から感謝しています。本当にどうもありがとう!

ということで、100回目となる今回はどんな内容にしようかとずっと考えていたのですが、今回は「自分が最も大切にしている言葉」について、書かせていただきたいとおもいます。元々この言葉についてnoteに記すつもりは全くなかったのですが、この機会にぜひ僕を支え続けてくれている一言を皆さんにもシェア出来たらと思います。

それでは今回も、よろしくお願いいたします。

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節から芽が出る

僕が最も大切にしている言葉。それは、「節から芽が出る」(ふしからめがでる)というもの。この言葉はもともと、空に向かって真っ直ぐに伸びていく竹の成長過程をなぞらえたものだ。

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竹は、折れない。

(これをいうと、「いや折れることもあるだろう」という声が聞こえてきそうだが、その”竹”は僕には当てはまらないのでここでは全力で無視)

竹は、たとえ大雪が降ろうが、たとえ強風が吹き荒れようが、折れることはない。太く大きな木でも強烈な嵐によって倒れることがある中、竹はしなやかに耐える。

竹は他の樹木の幹と比べれば、かなり細い。それでも、その強度は鉄筋の2-3倍とも言われている。

なぜ竹は折れないのか。それは、竹に「節」というものが存在するからだ。

竹の幹の部分はパイプのように空洞になっている。この理由は諸説あるようだが、一般的には材料を最小限にして早く成長するためだと言われている。そして、この空洞のパイプに加わる横からの力や上からの圧力(強風や雪)に押しつぶされないように直立を保持するのが、「節」の役割だ。

竹にはほぼ一定間隔に「節」があるが、これはタケノコから竹へと成長していく過程で形成されていく。この「節」たちが作られ、そこから新たな芽(枝)が出る。

そもそも、竹は毎年地下茎の節にある芽から新しいものが誕生してゆく。

新たな竹を生み出すにも、生まれ育った竹から新たな芽が出るにも、「節」は必要不可欠な存在だ。

そして、「節から芽が出る」とはその様子を表したものになる。(専門的観点から見れば多少の間違いはあるかもしれないが、僕はそう解釈している。)

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(画像は農林水産省 特集1 竹のおはなし(2)よりhttps://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1301/spe1_02.html)

節という言葉の意味(ここから本題)

「節」という言葉には、区切り、変わり目、つなぎ目、といった意味がある。僕は、この「節」にこれまでずっと支えられてきた。

僕は、困難に直面したときや、何か自分にとって大きな出来事が起こった時こそ、新たな芽が出ようとしている時だと考えている。そこでの経験が、自らの「節」となり、必ず未来の自分を助けてくれるものになると信じている。その瞬間は辛い、寂しい、苦しいと感じていたとしても、それは必ず、もう少し先の自分を奮い立たせてくれるものになる。

そしてこれは、いわゆる困難だけではなく、嬉しいこと、楽しいことに関しても言える。歓喜の瞬間、幸せを感じる時間も、それらはすべて一つの「節」となり、その先の自分の人生に何らかの影響を与えてくれると思う。

僕は人からよく「いつもポジティブですね。」とか、「常に前向きでいてすごいね」などと言われることがあるが、それにはこの考え方が深く関係しているのかもしれない。基本的に、どんなことがあっても「これは未来の自分を支える経験になるんだろうなあ」「ここからまた新たな芽が出るんだろうな」という考えに至るので、何か一つの出来事に引きずられることはあまりない。(もちろん、その瞬間瞬間では落ち込むことはあったりするけど)

何か自分にとって困難と思える出来事があった場合、そのことについて落ち込んだり、それにダメージを食らうことは全く問題ないと僕は思う。なぜなら人は完璧な生き物じゃないし、必ずどこかに弱さを持っているものだから。僕だって、何か悲しいことがあればその瞬間は落ち込むし、嬉しいことがあれば気持ちが舞い上がってしまうことはたくさんある。僕が大切だと思うのは、その出来事に影響されているフェーズをいかに早く乗り越えるか。このスピードが僕は少し早いだけだと思う。いうなれば、「現在起きている事象」という状態から自分が少し未来に数歩進みだす感じ。

僕は基本的に未来のことを常に考えているタイプの人間なので、何か物事が起こっても「これを将来に活かそう」とすぐに確信できるのかもしれない。

僕の中にある「節」

僕はこれまで、様々な「節」を経験してきた。ここでいくつか自分が体験してきた大きな節を挙げてみようと思う。

ひとつは、チェコ時代の親友の大怪我。

最も仲が良かった友達でもあり、チーム内で最も上手なプレイヤーでもあった彼は、現在車椅子生活を送っている。試合中に背後からのチェックを受け、そのままフェンスに突っ込み脊髄を損傷するという大怪我を負った。まさか、親友がこのような形でホッケーキャリアを終えることになるとは想像もしていなかった。「一生自分の力では歩けなくなるかもしれない」と聞いた時は、本当にその言葉が信じられなかった。本当にショックだった。

それでも彼は、あきらめなかった。今でも、懸命にリハビリを続けている。その姿に、何度励まされたことか。彼がこんなに必死で戦っているのだから、自分ももっと頑張らなきゃ示しがつかないだろう。

彼は、常に僕を奮い立たせてくれる存在だ。

https://www.instagram.com/krepaaaa/?hl=ja

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2つ目の大きな「節」は、大学2年生の頃の経験。自分は体調的には万全かつ怪我も全くない状況の中、シーズンを通してずっとレギュラーメンバーにはなれなかった。これまでも試合に出れない経験というものはあったが、自分がやれると思っている環境で結果を出せない時間は苦しいものだった。少ないチャンスを生かせなければ、自分が置かれた状況を抜け出せないという時間は、プレッシャーとの戦いだった。この時期は本当に、毎日ずっと「いつ試合に出れるか、いつ点を取れるのか」という焦りにずっと追われていた。ゴールを決めたと思ったらそれが夢で、朝起きてがっかりするという日々をたくさん過ごした。先が見えない状況というのは、どのように対応すればよいかを見失いがちになる。それでも自分が前を向き続けることが出来たのは、「いつか必ずこのトンネルを抜け出せる瞬間はある。その瞬間は100パーセント確実に訪れる。あとはそれが、明日の試合になるのか、来週の試合になるのか、一か月後の試合になるのかの違いだけ。」という考えを持ち続けることが出来たから。

結果的に、シーズン後半にようやくゴールを決めることができたわけだが、この1シーズンは本当に多くのことを経験し、多くのことを考え、多くの時間を自分と向き合う事に割いた。

ここまで自分と対話する時間を長く持ったのはこの時が初めてだった。

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もう一つの大きな「節」となった出来事。それは、初めて日本代表に呼ばれた平昌五輪最終予選の時。幼いころからの最大の夢だった「五輪出場」を自分の手でつかむチャンスだった。当時、20歳でチーム最年少の選手だった。「ここで夢をかなえる」という強い思いを持って挑んだこの大会。しかし、世界との差はあまりにも大きかった。自分のプレイは何一つ通用せず、結局予選は全敗。「惜しい」という言葉すらあげられないくらい、戦えなかった。チェコでの経験もあり自信をつけていたところだったが、それはあっさりくじかれた。

五輪出場に、かすりもしなかった自分の実力。「海外でプレイしている」強みもないままに終わった大会。

人生で最も悔しい思いをした瞬間は、多分この時だったと思う。

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「節」がこれからも自分を支えてくれる

ここまで、いくつか自分にとっての大きな「節」となる出来事を挙げてみたけど、ここでは書ききれないくらい様々な経験をたくさんしてきた。嬉しいこともつらいことも味わってきたが、その多くは、いわゆる「失敗・挫折」と呼べるものだろう。

それでも自分がこうして前を向いて歩き続けられていること、それでも目標をあきらめずに挑戦を続けることが出来ていること、転んだとしても踏みつぶされたとしてもその度にもう一度立ち上がる力を与えてくれているものは、この「節」に他ならないと思う。

もしたった今、自分がとんでもなく大きな障壁や課題にぶち当たったとしても、何も疑わずに「必ずこの壁はいつか超えることが出来る」と素直に思えるのは、実際に同じ方法で様々な場面を乗り越えてきたからではないだろうか。もしそれが実現不可能なものだとしても、失敗を繰り返し続けたとしても、それが自分にとっての一つの「節」となることに変わりはない。そして、必ず少し先の自分を助けてくれるヒントになる。

似たような言葉に「疾風に勁草を知る」という言葉がある。激しい風が吹き荒れたときに、はじめて丈夫な草が見分けられるということから、困難や試練に直面したときに、はじめてその人の意思の強さや人間としての値打ちがわかることを意味することわざだ。

自分にはまだまだ成し遂げたいことがたくさんある。そして、それを実現していくには、今自分が想像もつかないような困難を経験することになるだろう。

それでよい。

自分という竹をまっすぐと伸ばしていきながら、しなやかに、強く生きてゆく。

そんな思いを持ち続けながら、今を全力で生きる。

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自分の想いを書いていたらあっという間に長い文章になってしまいました。今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

三浦優希


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