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27. 平昌オリンピック最終予選の話(前編)

皆さんこんにちは。三浦優希です!
今回は、初めてシニア日本代表を経験した、2016年平昌オリンピック最終予選のお話をさせていただこうと思います。あれからもう2年・・色々と当時の思い出を振り返りながら書いていきたいと思います。

それではよろしくお願いいたします!

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私は、2016年9月に初めてフル日本代表のユニフォームに袖を通しました。当時私は20歳になったばかりで、現在中央大学アイスホッケー部で活躍する同期の蓑島圭吾君とともに、チーム最年少での選出でした。(写真右)

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この大会は、読んで字の如く、今年2月に開催された平昌オリンピックへの出場権をかけた最終予選で、日本、ドイツ、オーストリア、ラトビアの4か国が総当たり戦を行い、上位1チームが五輪への切符を手にすることができるというものでした。大会の開催地は、ラトビアでした。

まずは、代表に選ばれるまでの経緯をお話したいと思います。
当時から私はチェコでプレイしていましたが、現地での活躍が評価され、2016年6月に行われた、五輪予選の選手選考キャンプのメンバーに初めて呼んでいただきました。この合宿は陸上トレーニングのみで、氷上でのセッションはありませんでした。約40名ほどの候補選手が参加し、体力測定やフィジカルトレーニングをメインに行いました。この合宿は、とっても辛かった記憶があります。ランメニュー系は何とかやれるものの、ウエイトに関しては全く周りについていけず、覚悟はしていましたが、まじまじと年上の選手の方たちとのパワーの差を実感しました。

その後、7月に最終選手選考キャンプが行われました。この合宿は、メンバーを2チームに分け、紅白戦を数試合行うという内容でした。いわば、メンバー選考における一番大きな舞台となります。陸トレキャンプで全く印象を残せなかった私にとっては、ここが最大のアピールの場。気合を入れて臨みました。

そして私はこの選考会の紅白戦で、素晴らしいチームメイトの方たちにも恵まれ、全ての試合でゴールもしくはアシストを残し、自分が把握する限りでは(公式のスタッツがないため)、チームで一番多くポイントを獲得することができました。自分の中でも、やれたという自信があったし「これはきっと受かっただろう」と思っていました。

しかし、結果はメンバー落選。バックアッププレイヤー(怪我など、何らかの理由で大会を辞退する選手が出たときの代替)としての登録とでした。いわば、予備選手です。

本当に悔しかったし、「なぜダメだったんだろう」という思いもありましたが、いずれにしてもその結果はコントロールできることではないし、何かが起きてバックアップである自分が大会に呼ばれる可能性もあるということで、気持ちを切り替え、自分にできる最大限の準備に取り組んでいました。

私は、この選手選考会が終わったその日の夜に、その足でカナダのバンクーバーに向けて出発していました。これは合否に関係なく元々決まっていたことでした。チェコでの生活を終え、新天地アメリカのジュニアリーグに挑戦する直前ということで、バンクーバーにあるトレーニングセンターにて、3週間みっちり練習に励みました。こちらでのキャンプの詳しい内容も、いつか機会があれば書きたいと思います。

そして、バンクーバーでのキャンプ最終日を迎えようとしていた前日の夜に、代表チームのスタッフの方から連絡がありました。なんだろうと思って内容を確認してみると、「本メンバーの中から怪我人が出たため、優希が五輪予選代表メンバーに追加された。」という趣旨の報告でした。この報告を受けたとき、突然のことで本当に驚きました。でも、日本代表選手として、自分がずっと幼いころから夢見てきた五輪という舞台を、自分の手で掴むことができるかもしれないと思うと、ワクワクが止まりませんでした。

そしてもう一つ。それを家族に知らせたときに、父がこんな言葉を僕にかけてくれました。
「俺より早く代表のユニフォームを着れるんだな。本当におめでとう。」
父が初めてフル代表に呼ばれたのは21歳の時だったそうです。これを言ってもらえたときは、心が震えました。

当初の予定では、バンクーバーでのトレーニングキャンプを終えた後、日本に数日間の間一時帰国し、アメリカ生活に向けた最終準備をしてから、新所属チームがあるアメリカ・アイオワ州ウォタルーに入るつもりでしたが、その予定は代表に呼ばれたことで急遽変更。バンクーバーから日本に帰国したら、その次の日に羽田空港に向かい、そこで代表メンバーの皆さんと合流し、事前合宿地であるドイツに向かうことになりました。たった一つの出来事で多くの変更が生まれましたが、周りの方たちの理解や協力もあり、無事に日本代表チームに合流することができました。急遽合流することになった私のことを、チームメイトの皆さんも温かく迎えてくれました。

代表チームのスケジュールは、2週間ドイツにて事前合宿を行い、その後に大会地であるラトビアに入るというものでした。自分に与えられた背番号は22番。ドイツ合宿中は、地元のプロチーム(ドイツトップリーグ)と数試合練習試合を行いましたが、日本代表はすべて敗戦という結果に終わりました。私は、1セット目のフォワードとして出させていただいていましたが、1ポイントも上げることができませんでした。チェコでの経験もあるし、何とかなると思っていた当時の私はまだまだ甘かったです。パックをすぐ取られるし、体のぶつかり合いにも勝てない。だったら攻撃のシーンで何か見せようと思っても、シュートまで持っていけない。そんなことが多かった気がします。結局、自分の課題はずっと変わっていないということですね。
ちなみに当時のラインメイトは、現在東北フリーブレイズで活躍されている、田中豪選手(写真右)と河合卓真選手(写真左)でした。

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このお二方だけではなく、コーチやチームメイトの皆さんがそれでも僕を信頼してくれて、多くの出場機会やチャンスをもらいました。そのおかげもあって、練習試合を終えるころには少しずつこのような舞台に適応していくことができたと思っています。いまだにそうですが、やはりいろんな状況を経験してきているベテランの人たちからは、学ぶことが本当に多くあります。自分は今まで、アジアリーグでプレイする方たちと関わりをもつ機会がそこまでなかったので、実際に国内でトップ選手として活躍されている先輩たちの姿を初めて間近で見て、「必死についていかないと。この人たちを超えるくらいにならなきゃ」と、刺激を毎日もらっていました。

気が付けばチームはあっという間に2週間のドイツ合宿を終え、2016年8月29日に決選の地、ラトビア・リガに移動しました。
ちなみに、当時の世界ランキングは、ドイツ13位、ラトビア10位、オーストリア16位、そして日本は20位と、すべて格上チームとの対戦でした。今回の予選は相当厳しい3試合になると、誰もがわかっていました。

そして、期待と不安が入り混じる中、ついにチームはその日を迎えます。9月1日より、いよいよ平昌オリンピックへの切符をかけた日本代表の戦いが始まりました。自分にとっても初めてとなる、フル日本代表の国際舞台。ずっと夢見ていたステージへの挑戦が幕を開けました。

(後半へ続く)


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