美文の艶めき--平家文化への挽歌
序文の美ともいうべき、一切の例外を許さない冷厳きわまる有名な諸行無常の理で始まる平家物語には、これに並ぶ美しい名文が刻まれている。一門都落ちしたのち福原に一夜を過ごし、さらに西海に走るべく、福原を後にしたいわゆる「福原落ち」の道行文である。
平家、福原の旧里に一夜をぞ明かされける。をりふし秋の月は下の弓張なり。深更の空夜静かにして、旅寝の床の草枕、涙も露もあらそひて、ただもののみぞ悲しき。いつ帰るべきともおぼえねば、故入道相国の造りおき給ひし、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、萱の御所とて見られけり。馬場殿、二階の桟敷殿、人々の家々、五条の大納言邦綱の卿の造りまゐらせられし里内裏、いつしか三年に荒れはてて、旧苔道をふさぎ、秋草門を閉ぢ、瓦に松生ひ、蔦しげり、台かたぶいて苔むせり。松風のみや通ふらん。簾絶えて、閨あらはなり。月かげばかりやさし入りけん。
明くれば、主上をはじめまゐらせて、人々御船に召されけり。都を立ちしばかりはなけれども、これも名残は惜しかりけり。海士の焼く藻の夕煙、尾上の鹿のあかつきの声、渚々に寄る波の音、袖に宿借る月の影、千草にすだくきりぎりす、すべて目に見え、耳に触るる事、一つとしてあはれをもおほし、心をいたましめずということなし。昨日は東山の関のふともに轡を並べ、今日は西海の波の上に纜をとく。雲海沈々として青天まさに暮れなんとす。孤島に霧へだたつて、月海上に浮かぶ。極浦の波を分けて、潮に引かれて行く船は、なか空の雲にさかのぼる。
平家は、日数を経れば、山川ほどを隔てて、雲井のよそにぞなりにける。「はるばる来ぬる」と思ふにも、ただ尽きせぬものは涙なり。波の上には白き鳥の群れゐるを見ては、「かの在原のなにがしが、隅田川にて言問ひし、名もむつまじき都鳥かな」とあはれなり。
寿永二年七月二十五日、平家は都を落ちはてぬ。
(百二十句本、巻七第七十句「福原落ち」)
七五調に対句を交え、情感たっぷりに書かれているが、書き手もそしてわたしたちもその滅亡を知っていながら、ここには何か予言めいた響きが感じ取れる。命運尽き果てたものが見る悲壮な心情や世界は、わたしたちも少なからず経験しており、その予兆に共感するからだろうか。あるいは衰亡を皮相にも輝くばかりに磨いたこの名文に身震いするからだろうか。
ところでこの前二句では、平門それぞれの都落ちの様相がふんだんに語られている。なかでも藤原俊成に師事し優れた歌人でもあった忠度と、琵琶の妙手だった経正のことは芸術的佳話としてその風貌が詳しく描かれている。天皇の外戚となることで政権の座についた英雄清盛の貴族的性格がいわれるが、一方ではあの華美卓抜な厳島神社を造営したその清盛を始め、平家には和歌や芸道などに勤しんだ教養高き芸術家気質の公達が多かった。その栄華は、平安王朝文化を思慕継承するという使命を背負っていたともみえる。そうした文化を維持しその花を咲かせたとすれば、あるいは文化と芸術の滅亡がこの福原落ちに折り重なっているような気がする。この美しい道行文は、ともすれば平家芸術文化への挽歌として謳われているのかもしれない。
そこはかとない別れの抒情の余韻は、あっけない文献的記録の最後の一文で容赦なく断ち切られる。しかしそれがかえって失われた人びとや芸術への尽きせぬ哀惜と感動を宿し、落日の曳き波の残像のなかに戦ぎのごとく、いつまでもたゆたっているように思われる。
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