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それより、、今私が思っていること。「生産性がない障害者は、生きている意味がありませんか?。。」

相模原にある、障害者施設、津久井やまゆり園にて、45人の方が、殺傷された事件。

今日、被告に、死刑の判決が、下されました。

みなさんは、どう思われましたでしょうか。

私は、

そうだ、その通りだ。これほどの多くの尊い命を奪った重大な罪を犯したのだから、それは、誠に相応の判決だったのではないか。

と思う一方で、

いや、被告がただ死刑になるだけで、この事件は、このままで終わらせて良いのだろうか…。

という疑問符のついた、真逆の気持ちが残った状態に、実はいます。

この事件の中には、議論されるべき、各々に考えるべき、解決されるべき、たくさんの課題が、山積みに隠されているのではないかと、私なんかは感じているのです。

一度には書ききれないので、少しずつ語っていこうかな、と思っています。

というのも、この事件も、私が書きたい私の「本」として完成させたい議題の一部なので、ここで表現するべきか否かというところなのですが、その「本」を本当に完成させて、本当に出版できるのか、というところが、最もぐらついているので笑笑😂、まぁこのnoteという発信場所が一番発言しやすいし、ここを使わせて頂き、私の意見や、考え方とかを、表現していけたらなぁ…。。と思いました。

今日は、一つめの、私の思いを発信したいと思います。


「生産性のない障害者などは、

…生きる意味がありませんか??」


これは、植松被告が発言していた言葉です。

と、

であると同時に、実は、わたくし自身の心も、ずっと抱いている感情なのです。

いえ、ここで訂正させてください。

私は、植松被告ではないので、だからといって、他人を殺めたりはしません。

ですが、思っていること、考え方、価値観が、一致したと思い、自分自身、ハッとしたのです。

それは…、、

私は今、障害者の一人として、生きて、生かさせて、頂いています。

一般就労が難しいので、週2日、たったの4時間ずつの勤務…。それすら、今危うい状況。

なので、こんな若い年齢のうちから、障害年金という名のお金を、みなさまの税金から頂いて、生活をさせて、生かさせて、頂いています。

とても、

ごめんなさい。

と思います。自分を責め始めます。

とても申し訳なさを感じるし、なんというのでしょうか、後ろめたさ、情けなさ、劣等感のようなものを、強く感じます。

みんなのように、一人の立派な大人として、しっかりと働いて、税金をたくさん納めて、バリバリ仕事をしたり、家庭を支え、子育てをしっかりしたりすることができない人間など、

生きていても、

意味があるのでしょうか…。


何の生産性もない、こんな私が生きてるだけで、みなさんの大切な税金の、大変な無駄遣いになりませんか…。

だから、私なんかは、いなくなった方が、絶対にいいのではないでしょうか。。

と思うのです。

そう思わない日は、正直ないです。

しかしながら、不思議なことに私は、自分には、そう思うのですが、他の障害を持った方などには、そういった感情を抱きません。

みなさんは、一生懸命に、それぞれの役割を果たして、精一杯生きている、ちゃんと生きる意味がある。、

とそう見えるのです。

しかしながら、一転、自分のこととなると、

私など、絶対にいなくなった方がいいのだ。

と思ってしまうのです。

たぶん、要するに、

自己肯定感が、驚くほど、低すぎるんです。

しかし、最近は、家族の愛情を、少しずつ、少しずつ、感じられるようになり、以前ほど、希死念慮を抱くことは、少なくなりました。

今の家族は、以前の家族と180°違い、

何もできない、こんな私でも、

それでいいんだよ。◎

と、認めて、愛して、許してくれるので、

ありのままの自分を、認めることが、少しずつ、できるように、なってきました。

カウンセリングのおかげもあります。

私が伝えたいことは、

障害者や、生産性のない人間という者は、生きていてはいけないのか、

という疑問です。

障害者や、その他生活に苦しむ人々は、他の人の手助けがなければ、支えがなければ、絶対に生きることができません。

障害者や、生活に苦しむ人々にも、その人たちをすごく愛していたり、その人を必要としてくれている人が、きっと、いや必ずいるのだと、私は思います。

私も、こんな私でも、最近は、家族に、

〇〇がいて、お父さんお母さん本当にうれしいよ、

お姉ちゃんも、〇〇ちゃんがいなくなったら、悲しくてどうかなっちゃうよ、

とぎゅっと抱きしめてくれます。

そうすると、私なんかは、みんなのように、何もできないかもしれないけど、私は生きる価値、生きる意味があるのかもしれない、

と少しだけ思えるのです。

だから、私以外の人にも、同じような状況の人が、このような感じで、きっと成り立っているのではないかと思うのです。

障害者だって、

みんなから、必要とされている。

それより、

生まれたときから、好きで障害者になった人は、

誰一人といない。

障害者も、同じ人間。

同じ人間だからこそ、同じ愛情、同じ接し方、普通の生活、普通の幸せ…。たくさん、欲しいんです。

長くなっちゃったんで、何を書いているかも、少しわからなくなってきましたが、この辺で今日は、終わりたいと思います。

また、この件に関して、これからも、わたしなりの考えや価値観を、少しずつ、発信していきたいと思います。

被害者の方々…、ご遺族の方々に…、

深くご冥福をお祈り致します。






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