ききたい

稲森安太己に〇〇について聞いてみた(1)

「ちょっときいてみたい 音楽の話」第七弾は、作曲家の稲森安太己さん。同世代の作曲家として切磋琢磨してきた友人でもあり、尊敬する音楽家、指導者でもあります。(インタビュアー:わたなべゆきこ)
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感覚的なもの


――(わたなべ)「〇〇について聞いてみる」では、特にテーマも設けず、ざーっとまず話してもらって、その後一か月くらい編集の時間を取ってます。ここでは、お互いが赤を入れて少しでも読みやすくなるように直していくんだけど、「これって抽象的すぎない?」「表現が自己完結しちゃってない?」と、感覚的なものを形あるものに置き換えていくんですね。

そうなんですね。ぼくね、思うんだけど、日本って感覚的なものも受け入れられやすい傾向にあるじゃないですか。

――察する文化があるし、もともとハイコンテクストだから何となくでも伝わった気になりますよね。

僕はドイツに来てからそういう「感覚的なもの」を少し失ってしまった気もしてるんです。日本語で書いた解説文なんかでも、外国語を日本語訳したみたいって言われることがあるんですよ。

――理路整然としている。稲森さんの楽譜には、そういうイメージがあります。過不足なく、説明されている。

だから音楽の内容も、論理的で、非感覚的なものだと思われがちなんですけど、実際目指しているものは全然違うんですよね。例えば、この前日本で発表した作品は「思惑(おもわく)」というタイトルで、英題だと「裏のある考え」っていう意味があるんですけれど、この作品を聞いた人の中に「小さなひっかかり」が残る音楽にしたかったんですよね。

――ひっかかり?稲森さん自身が計画した、具体的な「思惑」があるという意味ではなくて?

違うんです。「思惑」があるんじゃないかって、聞く人に思ってもらえるように、こういうタイトルにしただけ。そのひっかかりの部分は音楽上綿密に計画しているんだけれど、具体的な個人的エピソードがあるわけではないんです。

――あぁ、なんだか、とてもサイコロジカルなんですね。確かに言葉としての「思惑」っていうのは結果としての行為ではないですよね。「こうは言っているけど、実はこういう思惑があるんじゃないか」って感じ取ることって、勝手に第三者が裏を読むことであって。本音と建て前がある日本ならではの感受性なのかもしれない。

僕は音楽の抽象性を信頼しているんです。具体的なものが表面に現れれば現れるほど、音楽としては弱くなると思う。もちろん、創作の出発点は自由だし、何か具体的なものであっても良いと思うんだけれど、そこから羽ばたいていくものって、説明の難しい、もっと訳のわからないものであって良いんじゃないかな。

――これは、先月アップした宗像礼さんでも出てきたテーマですね。聞く人にとって「?」で良いんだと。でもね、不安じゃないですか、聞く方は。「これって、こういう聞き方で良いんだろうか」って。それで解説を読むわけですよ。解説を読んで、何かわかりやすいものにすがろうとする。少しでも形のあるものに、知っているものに寄せようとする。

僕はね、音楽の物語性って大事だとは思ってるんですよ。でもね、聴衆を何か一方向へ誘導するようなやり方は好きじゃない、違うと思うんです、最近。作曲家って、時に盲目じゃないですか。自分が自分の作品のことを誰よりもわかっている、と思うのは穿った考えだとも思うんですよ。だってね、作った音楽ってね、そこに生み出された時点で作曲家の意図なんて、端っから越してるわけ。

――自分の子供みたいなもの?自分の腹から生まれた子であっても、その個人は別の可能性を含んでいるというか。

音楽を聴いた人から感想をもらうじゃないですか、作品意図とか全然知らない人が。そういうときってね、自分でも気づいてなかった、その作品の別の面が見えたりっていうことがあるわけです。でね、考えもつかなかったような意見に出会えることが、作曲家としての楽しみだったりするんですよ。

――なるほど。それだったら、例えばとても無機質に「作品番号1」とかじゃなく?

あぁ、それだと逆に作家性が強まってしまうんですよね。

――作家性?

僕が、この作品を書きましたっていう。ぼくがやりたいのは、作家性を出来るだけ薄めることなんです。自分の意図とか、そういうものは二の次であって良い、自分にとって大事であってもそれを押し付けたくない、なるべく自由に音楽を聴いて欲しいと思うんです。
例えばわたなべさんはどうなんですか?「朝もやジャンクション」は?

――「朝もやジャンクション」は、最初は全く別のタイトルがあって。「KOHLE」っていう仮題を付けていたんです、日本語で「石炭」ですね。石炭って、植物化石って言われていて、有機的であってかつ無機質なもの、という漠然としたイメージが最初にあったんです。それで、実際に石炭を見に行こうと思って家族でツォルフェアアイン(ドイツ、エッセンにある産業遺産)に出かけたんだけど、そこで見た「鉄鉱石」がとてもワイルドで生命力を感じて。それが創作の出発点でした。でも、実際つけた題名は「朝もやジャンクション」。全く別なんです。作品って多面的で、それを語る道筋って幾らでもあるじゃないですか。

じゃあ「朝もや」も「ジャンクション」も、音楽と全く関係がないんですか?

――昔はアイディアをタイトルにしていたけど、最近は色々ですね。わたしにとって創作上のアイディアはきっかけであって、どれだけ思考を遠くに飛ばせるか、そのための存在なんです。だから自ずと出来上がった音楽はかけ離れたものになる。ただ、聞く方にとってのタイトルっていうのは、音楽を聞く「手助け」でもあると思うんです。だから第三者の立場になって、この作品を一番最初に聞いた人がどんな感覚になるんだろうって、そっち側を想像して、それに寄り添ったタイトルを付ける様にしてます。ここが「朝もや」でここが「ジャンクション」です、という風には全く考えていませんね。

なるほどね。僕はね、タイトルを付けるときに決めていることがあって、具体的な音を想起させるようなものは避ける。例えば、「風の~」とか「水の~」とかね。そういうものって、言葉から音が聞こえてきてしまうから。

――そういえば、タイトルで思い出したのだけど、先日WDRシンフォニーオーケストラで初演されたヴィト・ジュライの「オードブル(Hors d'œuvre)」聞きました?

これね、ケルンのレストランのコックさんがソロを務めてるんだけど、それだからってね、タイトルがオードブルって、とてもダイレクトですよね。ヴィトの作品は大好きで、2011年のChangeoverとか、凄く影響を受けた作曲家です。

(稲森)ヴィトの「オードブル」、とても面白い作品でしたね。僕は、ダイレクトなタイトルで内容を表しているのは、ヴィトの音楽には合っているように感じました。そもそも「それぞれの聴き手が深読みしながら自由に解釈してください」というタイプの考え方をする作曲家ではないと思うし。多分彼は、彼が思う作品の本質と近いと考えてもらったらそれが一番なんじゃないかな。とてもヨーロッパ的な良さのある作曲家ですよね。2007年にわたなべさんと出会った武生でヴィトにも会っていて、それからずっと作品を聴く機会の多かった作曲家です。見事な作品を次々に生み出していて注目しながら聴いています。

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vol.2 は8月5日更新です。お楽しみに。

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