
その土地にある歴史や文化と創作
幼稚園から高校まで住んでいた松本は、わたしにとって馴染み深いものでありながら、大学から留学時代にかけて離れたことで、ぽっかりと大きな穴があいたような不思議な場所になっている。離れている間に、多くの温泉地が老人ホームに代わり、賑やかだった商店が介護用品店に変わり、都会にいると一見感じられない超高齢化社会が眼前にあり、自分自身も家族もそこに片足を踏み入れようとする中で、この地域のこと、また周縁での生活について思うことは多々ある。
日本に戻ってから4年が経ち、都内での活動は少しずつではあるが増えており、以前の友人知人をつてにコンサートをやったり、作品を書かせてもらうこともあるが、実は地方での活動基盤を作るのが難しい。もともと内気な長野県民。長年住んでいる人たちのコミュニティには今更ながら入ることが難しく、かつ移住した人たちの活気ある雰囲気にはどこか馴染めず、Uターン組はなんとなく肩身が狭い。自分としては東日本大震災の時に日本にいなかったことが、この国の一員であるというアイデンティティ形成になんらかの影響を与えているのではないかと思うこともあるが、とにかく居場所がないというのが、帰ってきて感じたことではあった。
そんな思いもありながらも、少しずつ地元でもできることを探していこうと、満月会という自然の時間感覚の中で音を奏でる体験会や、山の稜線を音にするワークショップなど、ここだからこそできることをやっていく中で、マツモトアートセンターの北澤一伯さんと出会った。
北澤一伯さんは、松本にある芸大受験予備校、マツモトアートセンターをやられているアーティストで、この場所は単なる予備校という範疇を越えて、非常に面白い活動を展開している。北澤さんのお話によると、以前は東京の大学でも教鞭をとられており、今のわたしと同じように東京と行き来をしながら活動を続けてこられたとのことで、共通点も多い。北澤さんから聞くアートや社会の話は面白く、こういった方が地元にいることがありがたいし、とても刺激を頂いている。
そして、その北澤さんからご紹介頂いたのが、今マツモトアートセンターで展示をされている横山昌伸さんだ。
シンビズムのウェブサイトに書かれている横山さんの言葉を引用する。
見ることは戦うことだ。制度化された既製品としてのフォーマットに、見ることもからめとられる。モチーフを見ることが、ただ見ることが、視覚の制度を破壊し越えていく契機になりうるのだが、制度の力は凄まじく、挫折させられるも、かえって先人たちの戦いの痕跡を蜃気楼のようにそこかしこに見つけることもできる。 フォーマットとの戦いは美術に限ったことではない。既製品の援用で生活を行うことは効率的でスムーズだが、ただただ生に欠ける。フォーマットを引き離す生と、引き戻される死とが、お互いの力によってお互いを裏返し反転させる静物画的なヴァニタスの運動は、そこかしこで、日常的に行われていて、そこにも創造性の契機がある。
「フォーマットとの戦い」という点において、わたし自身は既存の枠組みの中で創作することで、その真意がどうであれ否応なく「Yes」を言い続けなければいけないような心情に落胆しており、非常にシンパシーを感じる言葉であった。北澤さんのご紹介で、横山さんの展示の一環として「Dinner1 —新しい郷土基底材のための干物—」にも参加させて頂き、今年別のところでもお世話になった文化人類学の分藤大翼さんと共にアートについて、音楽について、大量の干物を野外で焼きつつ、ざっくばらんにお話をしたのだった。
そして先日、横山さんのアーティストトークを聞きに、マツモトアートセンターに足を運んだ。そこで聞いたのは「基底材」と「支持体」の話だった。アートの用語に明るくない自分は恥ずかしながら、その用語の詳細がすぐにつかめなかったが、要は「キャンバスや板や紙など、絵が描かれる対象物の事を総じて指す言葉」ということのようだ。横山さんのお話によると、キャンバスと言った時に、その裏側にある木枠の存在が言及されることがないと。確かにキャプションに「木枠」というのが書かれているのは、見たことがない。そして横山さんは、存在しているのに社会的に見えない存在になってしまっている「木枠」というところに着目しただけでなく、林業やキャンバスを作る労働を通して、観念的ではなく、身体からそれを理解しようとしている点がとても面白いと思ったし、そもそも音楽でいえばピアニストが楽器を理解しようと木を伐りに行く話は聞いたことがないわけで、私は音の音律をもう一度調べたいと思って、いつか竹を切りに行こうなどと思ってなかなか腰が上がらないが、実際に労働に結び付けて、生きている行動力がなんとも素晴らしいと思った。
それで、トークのあとに少し考えていたことは、その土地の体験についてだった。今数多くある地方のアートビジネスは、地方色のある作品やその土地のリサーチを通して作られるものが多い。ビジネスモデルとしての地方再生アート作品の多くは、短期滞在によって作られるもので、外から見た内側であることが多い気がしている。自分自身もまた地方都市に行き、その文化に触れることで創作意欲がわくという感覚を知っているので、そのモデルが成り立つ意味合いも理解しているが、こと松本においてはおそらく自分自身が長くその場で成長してきたからこそ、外側の視点を持つこともできないし、長く松本を離れたことで内側の視点も得られない中途半端な状況にある。横山さんは松本出身で、似たような状況で長く故郷を離れていたということで共通点がありながらも、既存の構造に身体を持って戦いを挑む創作姿勢というのがUターンアーティストの活動として、わたしがリスペクトしている理由でもある。
もう一つ、その土地の体験について考えていたことがある。それは、ジョン・ケージのことで、これはシェーンベルクの娘で、ルイジ・ノーノの伴侶であるヌリア・シェーンベルクのインタビューで書かれていた、ダルムシュタットでのノーノの講演と関連している。
Und mein Mann hat dann eben im nächsten Jahr, 1959, diesen Vortrag gehalten, in dem er meinte, dass man nicht aus seiner eigenen Tradition, etwas aus einer total anderen Herkunft einfach übernehmen sollte. Dass jeder eine eigene Geschichte hat, aus seinem eigenen Land oder seiner eigenen Kultur, die man vorwärtsbringen kann. Aber man darf sie nicht vergessen. Man kann nicht einfach ein Modell nehmen von irgendwo und das draufkleben auf seine schöpferische Arbeit. Und das war natürlich nicht gegen Cage, weil Cage machte, was für ihn richtig war, meinte mein Mann. Er kam aus einer ganz anderen Kultur und hat keine Schuld gehabt, dass andere Leute sein Modell nachmachen wollten.
そして私の夫(ルイジ・ノーノ)は、翌年の1959年にこの講演(ダルムシュタットでの講演)を行いました。その中で彼は、自分の伝統とは全く異なる出自のものを単純に取り入れるべきではないと考えていました。誰もが自国や自文化から来る独自の歴史を持っており、それを前進させることはできます。しかし、それを忘れてはいけません。どこかからモデルを取ってきて、それを自分の創造的な仕事に単純に貼り付けることはできません。そしてもちろん、これはケージに対するものではありませんでした。なぜなら、ケージは自分にとって正しいことをしていたからだと、私の夫は考えていました。
https://internationales-musikinstitut.de/de/imd/mixtape/nono/
世界をフラットに捉え、偶然性の中で音楽を作る、開放的で自由な発想を持つケージがダルムシュタットに登場した時に、多くの若手作曲家がそのアイディアに魅力を感じ、それまでの厳格な手法による音楽創作の流れに終止符が打たれたことは理解ができる。その先にあるのが、ノイズを多く用いた現代までの流れであるし、伝統とは一線を画し、ポップカルチャーを取り込んだ作風や偶然的な環境の音を用いたものなど、それらも多少なりともケージの影響にあると感じる。ただ今、あの頃とは違う状況下で、もう一度ノーノの言葉を違う角度から振り返るとすると、どんなことが言えるだろうか。
その土地にある歴史や伝統をどうとらえるのか。わたしはまだそれに答えを出すことが出来ない。横山さんの展示を見ながら、土地と創作の関係について思いをはせている。
展示は、12月22日まで。22日の最終日は、トークやパフォーマンスなどもあるので、みなさん良かったらぜひ。わたしも何かやる予定です。
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