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一音のためのコンポジション

地球の自転を感じ取れるか

今年に入って小田原のはじめ塾の子どもたちと「一音」を作るということをチャレンジしたり、先日の満月会でも月が昇る一筋を見届けるということをしていたりして、帰国後のわたしはゆっくりとした時の経過を感じるような時間感覚に惹かれつつある。

音楽はその時代の文明とも結びついていると感じる。特に乗り物のスピード感は音楽のドライブ感と直結している。自分自身の足で動いていた時代から馬、車、電車、飛行機、新幹線、そして今やわたしたちはインターネットで瞬時ともいわれるような時間間隔を体験している。音楽も同じく、非常に短いスパンの音楽や一瞬で感じ取れるもの、速いグルーブ感がこの時代に愛されている。自身の足を使わずとも遠くにいけるようになったことや、音楽を聞いて身体が動かずとも内的状況が運動するということにある意味原発に似たような感覚をわたしは持っている。いかに動かずに動くかという命題。

そんな時代の流れとは別に、わたしは音楽と共に歩む人生を選んだ人間として、人間の自然な趣向とは異なる時間感覚を実験してみたいと思っている。非常に多くのスピード感を体験できる現代に抗うように、地球の自転の感覚を、月の公転を感じることができるんだろうか、そんなことを考えながら太陽や月を見ながら、そのゆっくりとした時間を感じ取れないか日々チャレンジしている毎日だ。

一音のためのコンポジション、名前のない時間

この秋に初演される二つの作品はシリーズとして書かれている。興味があることがどうしてもそこにあるので、同じ時期に書いたこれらの作品が双子のように似通ってしまった。一つは10月22日に演奏される「どーげんをプロデュース」の委嘱作品(@コンサーツラボ)、二つ目は11月5日にドイツのアンサンブル、hand werkによって演奏されるものだ(@ゲーテインスティテュート東京)。それぞれプログラムノートを書いてみる。

一音のためのコンポジション・・・
10年間の留学当時、欧州で西洋音楽をやることは至極自然なことであり、その絶対的条件の上で外国語を話し、その理論と価値観のもとで作品を書くことに疑問はなかった。しかし違和感を感じ始めたのは帰国してから、フェミニズムの勉強を始めた時期だった。帰国先が長野の田舎だったことも影響している。わたしは田舎で子どもたちに音楽の基礎を教え始めた。教えるとなると、そのことがどういった理由で決められているのかを知る必要がある。ドレミがドレミでなければいけない理由や五線がどうして5本なのか、ピアノの平均律の便利さと引き換えになったそれ以外の音たちのことや拍子の書き方など、わたしの創作の細胞でもあったそれらの基礎知識が、誰によって、どういう理由で決められたのかを検証することになった。例えば、ドレミは聖ヨハネ賛歌の一つ一つの文の頭文字を取ったものであり、もちろん日本ではなくイタリア人によって考案されたものである。加えて、聖ヨハネ賛歌の文中で使われるFamuli(使徒)は男性名詞であり、そこには女性の不在を見ることができる。わたしは自分が既に血肉として身体の一部としている音楽の小さな要素の中に、わたし自身、個人が含まれていないのではないかと思うようになった。一つの音を聞くだけでも、そこに付随するこれまでの慣習や教養的な聴取は、特定の地域や文化の中ではあたかもそれが当たり前のように感じられるが、異なる文化圏に空間を移すだけで、その聴取自体が変化する。わたしが10年間の海外生活の中で最も素晴らしい聴取体験をしたのはエジプトだったが、それは西洋中心的な聴取の外に自分自身が飛び込んだ故に感じられる開放感だったのではないかと思う。もし言語の一つ一つ、あるいは漢字の一つ一つに、自分とは相いれない価値観が入り込んでいるとしたら、もう話すことをやめようかと思ってしまうだろう。このことに気づいたとき、わたしはそれまでと同じ方法では作曲をすることができないと絶望した。作曲は様々なマテリアルをもって時間を構築することにあるが、作曲以前にそのマテリアル一つ一つが再度検証されるべきであると思った。この作品は一音だけを聞くことをコンセプトに、わたし自身がその音をどのように聞くかをリサーチするために書かれている。つまり一つの音をゼロから聞くことが出来るのか、音をもう一度個人の手に戻すためのシリーズ作品として創作されている。フルートのCisの音は、西洋クラシックの耳では時にドビュッシーの『牧神の午後の前奏曲』の冒頭を思い起こさせるものであるが、それは決して一つに限定されるものではない。例えば、昨日聞いたパソコンのノイズや冷蔵庫が故障した時の音、自分だけが知っている音の記憶とそれを結び付けることもできる。ここでは誰も知らない記憶が音と結びつくことを期待している。

一音のためのコンポジション

名前のない時間・・・
「Unbenannte Zeit」(名前のない時間)は、時間に焦点を当てた作品である。人間によって分割された時間ではなく、未分化の時間感覚に戻るために、この作品ではテンポや拍子記号を可能な限り排除し、代わりに変化する色で時間を表現している。色の認識は多様であるから、色を認識して音を出す行為は個人的なものである(虹の色が7色であることが一般的でないように、色の概念は文化によって異なる。)。観客はこの自己認識に依存する色のスコアに対応し、指定された音たちを奏でる。そこでは分割された時間ではなく、滑らかな時間を体験する。この作品には、コンサートで演奏されるパターンと、半野外(室内であるが、窓から夕陽が見えるような場所)で演奏されるパターンがあり、後者の場合には夕日を見ながら演奏されることが期待されている。フェミニスト神学者Mary Dalyの言語や概念を家父長制から解放する試みにならい、この曲は、生活の何気ない時間に名前をつけることによって、時間をとらえる感覚や日々の体験をこれまでの枠組みから解放するための一種のリサーチとして書かれた。

迷宮のような驚くべき闘い。 悪魔祓いであり、「スピンスター」たちが別世界——すなわち私たち自身の時/空間 ——へと姿を変える迷路のような道を見つけ出す、うっとりするようなプロセスである。(メアリー・デイリー、“The spiritual Dimention of Women’s Liberation”)

名前のない時間

5年前に帰国し、一つの土地に5年以上住まないとなかなか馴染めないという勝手な自分説を越えた時期から確かに少しずつではあるが、今いる土地に知り合いが増え、作品作りと生活が繋がり始めている。それと同時にこれまで興味を持ってやってきた事柄がじんわりと結びつきを見せている。

2018年に始めた女性作曲家会議では最初の数年はとにかく仲間内で気づいたことや思っていることを話し合い、癒され、また過去の文献や同世代の異分野の女性アーティストたちの活動を見て励まされてきた。女性作曲家と名前がついているばかりに、周りの人たちから女性作曲家の地位向上委員会だと思われている節もあるが、制度と戦うより実際は「ケアする」という方向の活動だったと思う。お互いの経験をシェアすることで、これまで当たり前だと思っていたことが当たり前じゃなかったことに気づいたり、抑制されてきた感情や無理をして踏ん張っていたこともそんなこと必要なかったと思えるようになったし、この活動の中で仲間ができたことで、これまで硬直していた考え自体が軟化して多少なりともしなやかに創作ができるようになったと思っている。

助け助かりあう関係性の先にあるものとして、わたしはこのフェミニズムの考えを音楽家として創作の実践の中で扱えないかと自然と考えるようになった。フェミニズムにおける「ケア」の先に創造的段階があるとしたら、どんなことがあり得るのだろうかと。1970年代のウーマンリブのような社会運動を経て、今個人でフェミニズムをとらえることができる時代に、創作を追求するための一つのアイディアとしてそれを考えることができるのではないかと思った。奇しくも同じ時期に書かれたこの二つの作品では、異なる視点ではあるが両方ともフェミニズムの観点で、音楽における基礎のとらえ直しをしている。一音の探求は、一音が二音になった途端に構造が出現するわけだが、それが一音であったとしても教養的聴取においては、ある種の推測が行われる点に対する疑問として端を発している。昔レッスンで「どうしてこの音はドなんですか」と聞かれたことがあったが、そもそもそのように捉えること自体が実は西洋的で、一音であっても、それがこれまで書かれた西洋音楽との比較で説明することや説明責任があると感じさせられることに疑問を感じていた。一音は誰のものでもなく、それを一つの文脈に固定してとらえることはできない。「名前のない時間」においては時間を計る定規を一旦外して、いかに時間を感じ取るかということをやってみている。両方とも実験であり、わたしにとっては「ケア」の一環でもある。女性作曲家会議で行っていた「これって違和感があるけど、本当に一般的なことなのか?」「もし一般的だとしたら、それに違和感を感じるわたしは変なのか?」といった感覚のシェアは、音楽を通しても可能であり、わたしが変だと思うこと一つ一つは丁寧に取り出されて検証されることで、何かの助けになるのではないか、少なくとも自分にとっては必要な行為だと思っている。

所属団体のキャビキュリでは、10月22日の「どーげんをプロデュース」に始まり、11月5日のhand werk、12月4-5日にはスウェーデンからCurious Chamber Playersをお迎えして公演を行うことが決まっている。あらゆるものにCuriousに、また感性を開いていく勇気をもって、イベント満載なこの秋シーズンをこれから迎えたいと思う。ということで、二作品脱稿。

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