ききたい

村上淳一郎に〇〇について聞いてみた(3)

ヴィオラ奏者、村上淳一郎さんインタビュー第三弾。現代音楽とオーケストラの関係性、音楽の欲望の話から、最後は村上さんが思う音楽の形について(インタビュア:わたなべゆきこ)

音たちの存在

――(村上淳一郎)僕ね、「音たち」みたいな感覚を持っているんです。恐らく普通の見方で言えば、楽譜があって、そこにおたまじゃくしが書いてあって、身体を使うことで音が出る、という順序なんだけれども、実は逆なんじゃないかなって思う。弾いている時の僕の感覚としては。この「音たち」一つ一つに、既に人格があるように感じてるんです。

(わたなべゆきこ)わ!それ、凄くわかります。なんでだろう、私もそう感じるときがあります。

――そして、真実は彼らが一番良く知っている。どういう音でありたいか、どこに向かいたいのか、どのタイミングで次の音に行きたいのか、質はこうあるべきだとか。そういったこと全て、「音たち」が既に知っている、と思うんです、抽象的なんだけれど。そして、その「音たち」の欲求に、演奏家は耳を澄まさなければいけないと思うんです。音たちの要求に身体を添わせていく。だとするとね、大事なことは、彼らの声が聞こえてくるまで、「待つ」ということなんです。待って、「音たち」から指示が来たら、操り人形のように動かされて、弾かされる、という順序なんじゃないかと思うわけ。

身体を使って音を出す、のではなくて、音に身体を操られて動かされている、と。

――そうです。そうなったときが、一番良い演奏。「僕が筋肉を動かして重さを与えないと、音が出ないじゃないか」って普通だったらそう感じると思うんだけど、実は逆なんです。それって、さっきゆきこさんが言っていたことと同じですよね。芸術って往々にしてあると思うんです。順番が逆っていうことが。

私たち作曲家と演奏家って、現代音楽をやる上で特にオーケストラだと、対立構造になってしまうことも多々あるんだけれど、そうじゃなくて、根本は同じなんですよね。そこにあるものに従うのみ、というか。

――それってね、実は技術もそうなんです。みんな、技術があればその音が出るに違いないって思うんだけど、実はそうじゃなくて、「その音を出すため」には「その技術」しかないっていうことなんです。だから、これも順序が逆なんです。

うーん、なるほど。

――「その音を出せ」っていう欲求が、自分からではなくて、さっき言っていた「音たち」から発せられて、「その音を出したい、その音を出すためには?」と考えて、身体がそこに従うように動くわけです。それが技術。

音楽からの欲求に応えるべく、自然についてしまうものが「技術」。

――「技術だけあって、音は何も語っていない」という場合も、よくあって。だからこそ、今でも「順序」には気を付けないといけないって思っているんです。

でも、一般的に見ると技術が先に見えるじゃないですか。「わー、こんなに指が速く動くのね!」とか「大きな音が出るのね」って。そういうところが表面に出て、本質的な部分っていうのは、いつも奥まっている。

――そうそう。だって、それって楽だもん、そうやって考えるのが。「音程が間違っているから、正しい音程でとろう」っていうのが、一番楽なんですよ。それを拠り所に何時間も練習をするって、一番簡単なこと。だって、もう答えがあるから。そうやって表面的な「技術」が整えば、世間から一定の評価がもらえる。お仕事がもらえる。食っていける。そうすると、いつの間にか「音楽を道具にして生きていく」ことになるわけ。

あぁ!そうなんですよね。そうか、そういうことか。「音楽を道具にしてる」ってその表現、凄くしっくりきました。


――道具にしちゃいけない、とは言わない。それで、ご飯食べている人がいても全然良いし、自分自身もそうしてしまう時もある。音楽そのものは器が大きいものだから、道具にされたところで文句を言ってくることはないんだけど、ただ、その先に、僕がこれまで体験したような「感動」はないだろう、と思うんです。僕はね、やっぱり自分が経験した「感動」にもう一回出会いたいと思う。一生に一回で良いから、そこに到達してみたい。「六十歳過ぎた頃かな」とか思ってるわけ。だからそのために、日々考えたり研究したりしながら、いつかそこに行けるって信じている。

村上淳一郎さんの〇〇について聞いてみた、いかがだったでしょうか。
2019年初旬からスタートした「ちょっと聞いてみたい音楽の話」。一年ご愛読ありがとうございました。また来年も引き続き、継続して投稿していきます。今後ともお楽しみください。それでは良いお年を(わたなべゆきこ)。

若手作曲家のプラットフォームになるような場の提供を目指しています。一緒にシーンを盛り上げていきましょう。活動を応援したい方、ぜひサポートお願いします!