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ドアをノックするように、関係を作っていく。

何年か前、シッターの仕事をした時のこと。

預かるのは2歳の女の子(Aちゃんとする)。
自宅から保育園まで送り届ける依頼内容だった。

もちろんAちゃんとは初対面。当時私は2歳の子を預かることが初めてだったので、少しドキドキしていた。

保育園までは徒歩で30分以上の距離がある。お母さんは下の子が生まれたばかりで、赤ちゃんを連れながら送ることが難しく、依頼をいただいた。

Aちゃんは、2歳にしてはしっかりしているように見えた。あれ、2歳ってこんなにお姉さんだったっけか…?今までがっつり関わったことがなかったので、2歳のイメージがくつがえされたように感じた。

いきなり知らない人が家にきて、緊張している面持ちのAちゃん。でも、保育園に行かなきゃいけないことは理解しているらしく、知らない私と一緒に、お家を出発した。

長い道のりで、しかも道は複雑。階段や坂道も多く、これはベビーカー押しながらは無理だな…とAちゃんのお母さんをふと想う。
下見はしていたけれど、方向音痴のためすグーグルマップを手放せず、とにかく無事に送り届けることに必死になっていた。

必死の私を気にもせず、Aちゃんは黙々と歩く。
話しかけてみるもかすかに「うん」という返事が返ってくるだけで、多くの言葉は出てこない。
緊張しているもんな…と思い、無理に話すことはしなかった。

2回目のAちゃん宅へ。

おそらく、1回目は緊張でのりきったAちゃん。はて2回目はどうなるか。たぶん行きたくないって言うんじゃないかな…。

予想は的中し、Aちゃんは私が来るや否や大号泣。「行きたくないー!」「ママがいいー!」と涙がどんどんあふれてくる。そりゃそうだよね。

こういう時は待つしかない、と思っている。「いや仕事しろよ」と思われる方もいるかもしれないが、知らない私が無理に近づいてもますます怖がらせる。お家にいる間、お母さんが対応できる間は、待つしかない。(もちろんケースバイケースだけど)

お母さんはAちゃんの気持ちに寄り添い、「下まで一緒に行こうね」とマンション下までついてきてくれた。Aちゃんは泣き止み、お母さんと手をつなぎながらマンションの外へ。お母さんの手をぎゅっとにぎるAちゃんの姿は、とても小さく見えた。

お母さんは「ここからはママは行けないから、お姉さんと一緒に行ってきてね」とAちゃんを後押しをする。それを聞いたAちゃんは、もちろん泣いて嫌がる。

ここまで来たら、私の仕事だ。Aちゃんを抱きあげて、そのまま歩き始める。Aちゃんはもちろんますます泣く。もう大号泣。

都会の朝。
泣きわめく子どもを抱っこする女。
何となく母ではなさそうなことがわかるだろうと思うと、かなり怪しい人物に見えていなかっただろうかと、今さらながら思う。

無理やり引き離すことに賛否両論あるかもしれないが、なんとなくAちゃんは離した方がいいような気がした。

きっと心の中で「がんばって保育園に行こう」という気持ちもある。でも、お母さんの姿が見えると、どうしても甘えたくなってしまう。それはごく自然なことだ。

だからあえて、離した。
号泣しているAちゃんを抱えながらも、Aちゃんはきっと切り替えられる、大丈夫だ、と自分に言い聞かせていた。

気持ちが別のことに向くように、話しかける。目につくもの、気づいたもの、「こんなおもしろいものあるよ」とAちゃんに伝えていく。

クロネコヤマトのトラックにはだいぶお世話になった。「あ、黒いネコさんがいるよ~」「何匹いるかなぁ?いっぱいいるねぇ」と伝えると、ふっとそちらに顔を向ける。

笑いこそしなかったが、気がつくとAちゃんは泣き止んでいた。

私からするとAちゃんを保育園へ送ることは仕事の一つであり、お母さんのことも、Aちゃんのことも、事前にある程度教えてもらっている。

でもAちゃんからすると「この人誰…?」という感じだ。いきなり知らない人と2人きりで、安心できるお家の外に行かなければならない。その恐怖たるや、大人の想像を絶すると思う。
だって、保育園ではない別の場所へ連れていかれる可能性だって0ではないわけだし。(もちろんそんなことはしないけど)

だから関係づくりを、絶対に焦らないと決めた。

もちろん仲良くなりたい気持ちはあるけれど、「Aちゃんにとって私は知らない人、怖い人」という前提に立って、Aちゃんの気持ちを大事にしながら、ゆっくりゆっくり歩み寄っていこうと決めた。

3回目、4回目…と回を重ねるごとに、初めは号泣しても泣き止むまでの時間が短くなり、おしゃべりが増えたり、笑顔が見えたり、明らかに様子は変化していった。

Aちゃんが感じていること、見ているもの、目線を合わせて一緒に見てみようと意識した。そしてAちゃんと一緒にいる時間が楽しくなるように、私自身もアンテナを周囲に張り、おもしろいものを見つけてはAちゃんと共有した。

少しずつ、少しずつ私のことを「よく知らない人、怖い人」という見方から、少なくとも怖いことをする人ではない、ということはわかってきてもらえているように感じた。

そして依頼期間が終わる頃には、家に到着すると「お姉さん、来た!」と喜んでもらえるまでになった。Aちゃんの笑顔が見られること。たくさんおしゃべりしてくれるようになったこと。そんな当たり前のことが、本当に嬉しかった。

シッターの私は「先生」ではなく「ただのお姉さん」。

ある意味「何者でもない」という立場から子どもと関係性を築いていくことの難しさを痛感した。お母さんでもないし、先生という肩書もない。何もない自分が子どもから信頼されるためには、どうしたらよいのか。Aちゃんに関わるたび、とても考えた。


子どもの感情をまるごと受け止める。いやなものはいやだと思っていいし(それでも保育園には行かなきゃいけないけど)この人きらい、怖い、と思ってもいい。それを否定せずに、そのまま受け止める。

受け止めたうえで、「私は仲良くなりたいな」を、無理のない範囲で、少しずつ行動で示す。自分のことを話したり、好きなものやおもしろいものを子どもに共有したりする。

押して、いやがられたら引く。
そしてまた別のところを、押してみる。

ぎゅぎゅーっと押すのではなく、コンコン、と軽くドアをノックするような感じだ。そうすると、固く閉じていた心のドアがちょっとだけ開き、こちらをのぞく顔が見えるようになる。

いきなりドアをこじあけようとしない。大人だって知らない人に対していきなり心を開くのは無理だろう。それは子どもだって一緒だ。
だから少しずつドアをノックして、反応があったらまたノックして、少しずつ、少しずつ、ドアを開いていく。

そうやって関係を作っていくことの大切さを、Aちゃんから教わった。

Aちゃんとの1か月半のできごと。

教わったことも、学んだことも多かったけど、何よりも嬉しかった。何者でもない、ただの「私」に対して、Aちゃんが少しでも心を開いてくれたということが。

そこには「大人と子ども」「先生と子ども」という関係性ではなく、ただの「人」と「人」という関係性が生まれていた。私はAちゃんと仲良くなれたことが、嬉しかったのだ。

きっとAちゃんは、私のことはもう覚えていないだろう。

ただ、淡い期待をするならば。

私のことは忘れても、小さいころ、お母さんじゃない人と保育園へ歩いた道のりがあったな、と。

その時間はそんなに悪くはなかったなと、記憶のどこかにほんの少しでも残っていたら。

こんなに嬉しいことはない。


そんなわけで、今日はここまで。


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