「生贄地区にて」第1話

【あらすじ】
ある日、世界は謎の存在である怪異の出現によって危機に陥る。
甚大な被害が続出する中、各国はあらゆる技術を駆使して怪異の隔離に成功する。
ある日、雑誌記者の八重は生贄地区の記事を作るため隔離地域への取材を命じられる。

【第1話】
 私の前には壁と門があった。
 壁の端はここからだと分からない。
 最低でも数キロ先まで続いているのだろう。

 自衛官による簡単なチェックを受けて、開かれた門を通り抜ける。
 その先には分厚いコンクリートのトンネルがあった。
 音声案内に従って進んでいく。
 壁面にはいくつもの注意書きが記されていた。
 不安を抱く私は早足で出口を目指す。

 五分ほど進むとトンネルの終わりが見えてきた。
 私は駆け足になって飛び出す。
 青い空に廃墟の並ぶ街並み。
 映画のセットのような光景が広がっていた。

 前方にそこに一台の車が停まっている。
 あちこちを木材や鉄板で補強されて、ペンキで何重にも塗装されていた。
 かなり乱雑でムラだらけだ。
 動くのかも疑問になるほどのビジュアルだが、ちゃんとエンジンはかかっている。

 運転席には灰色の髪の男が座っていた。
 死んだ魚のように濁った目で、生気のない顔付きをしている。
 まるでゾンビのようだった。

 私は内心の気持ちを愛想笑いで誤魔化す。
 この男は依頼を引き受けてくれた貴重な人物なのだ。
 断られ続けてたらい回しにされ、ようやく漕ぎ着けたのである。
 機嫌を損ねる言動は気を付けないといけない。

 決心した私をよそに車のドアが開いた。
 煙草を吸う男がこちらを見ていた。
 私は後部座席に乗り込み、なるべく笑顔で挨拶をする。

「こんにちは、初めまして。雑誌記者の八重です。本日はよろしくお願いします!」

「ああ、こちらこそ。お互いに死なないといいな」

 男はこちらを向かずに発進する。
 私は頬が引き攣るのを自覚しながら無理やり笑った。

「ちょっと、いきなり縁起の悪いことを言わないでくださいよ。軽く取材をするだけなんですから。滞在時間も僅かですし、さすがに大げさだと思うのですが」

「そう言って戻らなかった奴を何人も知っているよ。遺書は用意してきたか。家族に別れを告げたか。やり残したことがあるなら、今すぐに引き返した方がいい」

「ずいぶんと脅してきますね。そんなに危険なんですか」

「無論だ。この場所についてどこまで調べている?」

 問われた私は、鞄からメモ帳を取り出した。
 そこに記載した内容を早口で読んでいく。

「怪異隔離特別区域。通称は生贄地区ですね。十年前に全世界で発生した異常存在を閉じ込めた場所で、あらゆる法律が適用されないとか。ここに住むだけで日当百万円って聞きましたけど本当ですか?」

「事実だ。まあ、受け取る前に死ぬ奴も多いが」

 運転手は皮肉を込めて語る。
 ダッシュボード付近に顔写真付きのプロフィールが貼ってあった。
 男の名前は鎖原(さはら)。
 誕生は六月七日で年齢は三十二歳。

 彼はこの生贄地区でタクシードライバーを営む奇人だった。
 ある時期から入り浸っており、基本的に外には出ないらしい。
 私みたいに地区内を調べたい人間を相手に商売をしているのだそうだ。

 車は寂れた通りを走行する。
 信号機は機能しておらず、放置車両の間を縫うように進んでいく。
 たまに車がばらばらに分解されていたり、ひしゃげて道路にめり込んでいた。
 一体どんな交通事故が起きたらそうなるのか。
 私には想像も付かなかった。
 持参した一眼ラフでとりあえず写真に収めておく。

 地区内はどこもかしこも廃墟同然だった。
 真っ昼間で明るいのに不気味である。
 私の心境もあるのだろうが、外とは空気感が違う気がした。

(あまり長居したくない場所ですね……)

 怪異隔離特別区域――生贄地区は必要悪と言われていた。
 この場所が無くなると異常存在が全世界に出没し、十年前の大災厄が再開してしまう。
 人類は速やかに滅亡の道を辿ることになるだろう。

 それを防ぐため、各国の首脳陣が動いた。
 記録上で初めて異常存在が観測された地域に被害を押し付けて、他の大多数を救うことにした。
 具体的にどうやっているのかは知らないが、異常存在の行動範囲を狭めたのである。
 こうして人々は平穏な生活を取り戻した。
 だからここは生贄地区と呼ばれているのだ。

 世界が平和になったのとは対照的に、地区内はカオスだと言われている。
 多種多様な異常存在が発生し、想像を絶するおぞましい被害をもたらすという。
 私もニュースやネットの情報でしか知らないので、どこまで真実かはよく分からない。
 実際にこうして足を運ぶのは初めてのことだった。

 日当百万という高額報酬も、犠牲者を集めるためだろう。
 異常存在は人間の餌を与えることで沈静化するらしい。
 リスクが高すぎるように思えるが、金目当てに生贄地区を訪れる人間は多いそうだ。
 国内外から絶えずやってくるとのことだった。
 最近では犯罪者を移送する場合もあり、一種の流刑地として機能している。

(守銭奴と犯罪者と異常存在の巣窟ってわけね。カオスにもほどがあるわ)

 私が来訪したのは、雑誌で生贄地区の特集を組むためだ。
 あまり気乗りしなかったが、編集長に頼まれて仕方なく承諾した。
 日当百万も非課税で貰えると聞いたのも大きい。
 さっさと取材を終わらせて、高級焼き肉でも食べに行こうと思う。

 私は車内から街の風景を眺める。
 荒廃した建物が続くばかりで面白くない。
 適当に写真を撮るも、雑誌に掲載できるほどのインパクトはなかった。

 取材ルートは鎖原に任せているが、良いネタがあるのか不安になってくる。
 これなら有名な心霊スポットを巡る方がまだ撮れ高がありそうだ。

(住人が全然見つからないなぁ……)

 私はカメラを構えながら眉を寄せる。
 すると鎖原が忠告してきた。

「不用意に外を見るな。目が合うと不味いタイプがいる」

「異常存在……怪異ですか?」

「そうだ。視線に反応する奴は少なくない。優れた観察力は時として仇となる」

 鎖原が不愛想に述べるも、私はカメラを下ろさない。
 今回は取材が目的なのだ。
 危険だからと言って何も見ないのでは意味がなかった。
 記事に使えそうなものを探さないといけない。

 道路脇の電話ボックスに人が入っていた。
 私は声を上げてカメラを向ける。

「住人がいますよ。ちょっとインタビューしてみたいです」

「やめとけ。関わらない方がいい」

 気にせず私はカメラをズームさせる。
 電話ボックスにいるのは、白いワンピースを着た髪の長い女性だった。
 こちらに背中を向ける形で立っている。

 どうにかしてインタビューしてみたい。
 鎖原を説得して車を止めてもらうしかないないだろう。
 金を払えば従ってくれるはずだ。

 その時、女性の後頭部が蠢いた。
 艶やかな黒髪の間から、人間の指が覗く。
 陶器のように白い指は骨ばっており、剥がれかけた爪には血が滲んでいた。
 二本の手が後頭部から髪を掻き分けて伸びていく。
 あっという間に三メートルほどの長さになった。

「え」

 私はぽかんと口を開ける。
 非現実的な光景に言葉を失って思考停止していた。

 眺めていると女性が振り向く。
 顔があるはずの場所は、巨大な眼球が占拠していた。
 ぎょろりと目玉が回ってこちらを注視する。

 ――目が合った。

 私は「あっ」と呟いた。
 刹那、後頭部から生えた白い手が電話ボックスを突き破った。
 猛然と動き出した手は、這い進むように接近してくる。
 白ワンピースの女性は無抵抗に引きずられていた。

 カメラが手から滑り落ちた。
 私は震える声で鎖原に話しかける。

「え、ちょっとなんですかあれ。走ってきますよ」

「だから言ったろう。視線に反応する怪異だ。俺達を殺すまで追いかけてくるぞ」

 舌打ちした鎖原が車を加速させた。
 あれが異常存在……怪異やモンスターと呼ばれるモノなのか。
 人間に擬態するタイプがいるとは聞いていたが、あんな風に待ち構えているなんて。
 もしインタビュー目的で近付いたら、一瞬で捕まっていただろう。

(そうだ、写真を撮らないと)

 私はカメラを拾って後方に向ける。
 白い手の怪異は、激しい動きで追跡してくる。
 放置車両を弾き飛ばしながら猛然と近付こうとしていた。
 引きずられる女性の身体は、何度もアスファルトにぶつかって出血している。

 あれはどういう生物なのか。
 女性に寄生した化け物なのか。
 それともチョウチンアンコウみたいに餌を呼び寄せる部位を持つだけなのか。

 接近する怪異を観察するうちに、私は急に目まいを覚えた。
 座席に倒れ込み、揺れる視界に吐き気を催しながら呻く。

「う、あぅ……なんだか、頭が……」

 鼻から熱い液体が垂れる。
 血かと思って指で拭うと青かった。
 手足に上手く力が入らず、上体を起こすことすらできそうになかった。

 既に私は怪異の影響を受けているらしい。
 慢心していた。
 生贄地区の危険性は事前に勉強していたけど、想像以上だった。
 まだ数分しか経っていないのに死にかけている。
 日当百万でも安いくらいだ。

 一人で後悔する中、鎖原の冷静な声が聞こえた。

「しっかりしろ。正気を失うな」

 右手の甲に衝撃が走る。
 途端に意識が明瞭になった。
 脱力感や吐き気が遠のいていく。

 青い鼻血を垂らす私は手の甲を見る。
 錆びた釘が突き刺さっていた。
 裏返すと手のひらまで貫通している。

 鎖原の手には金槌が握られていた。
 あれで釘を打ったらしい。
 私は混乱しながらも抗議する。

「痛っ、なにするんですか」

「車内で狂うな。迷惑だ」

 鎖原はハンドルを回しながら言う。
 側面から金属の擦れる音がして車体が揺れた。
 ガードレールを掠めたようだ。
 鎖原は前を向いたまま、手の甲の釘を指差す。

「それで少しはマシになる。刺したままにしておけ」

「何か効果があるんですか」

「原始的な苦痛は怪異の精神汚染を遠ざける。気休め程度だから過信はできないがな」

 一応は助けてくれたらしい。
 かなり手荒だが文句は言えない。
 私は本当に危ない状態だったのだろう。

 釘の刺さった手に力を入れないようにして身体を起こす。
 怪異は依然として追跡してくる。
 いつの間にか後頭部から生える手が七本に増えていた。
 怪異は不細工なドリフトをしながら距離を詰める。
 ぶら下がる目玉顔の身体は、ポストに激突して血だらけだった。

 バックミラーを確認した鎖原は、私に指示を送る。

「それより後ろの怪異を撃退してくれ。落ち着いて運転できない」

「撃退って、どうするんですか!?」

「武器は座席の下にある。勝手に使ってくれ」

 屈んで覗き込んでみると、確かに武器が押し込まれていた。
 銃や斧やチェーンソー、ダイナマイトなんかもある。
 お札とか水晶といったオカルトっぽいものも保管されていた。
 きっと一部の怪異に有効なのだろう。

「なるほど。これが生贄地区ってことね……」

 苦笑した私は、とんでもない場所に来たことを悟った。

 私は慎重に武器を漁る。
 ごちゃごちゃとしており、迂闊に手を突っ込むと刃で切れそうだった。
 もう少し整理整頓をしておいてほしい。
 心の中で苦情を言いながら、ふと思ったことを鎖原に言う。

「あのー、こういうのって銃刀法違反じゃ……」

「生贄地区に法律は適用されない。この場所を丸ごと吹き飛ばすような平気でなければ何でもアリだ」

「ヤバいですね」

「今更だろう」

 当然のように述べる鎖原に、私は重いため息を吐いた。
 地区を丸ごと吹き飛ばすとなれば、たぶん核兵器とかなのだろう。
 それ以外ならどんな武器を使ってもいいわけだ。
 実質的にはルールなんて存在しない。

(想像よりも滅茶苦茶だ。やっぱり遺書は必要だったかも)

 あまりにも恐ろしい場所だ。
 とてもここが現代日本とは思えなかった。
 壁で隔てられただけで、今までの常識が通じなくなってしまうなんて。
 もう泣きたくなってくる。

 だけどそんな場合ではなかった。
 私達を追いかけてくる怪異はさらなる変貌を遂げていた。
 後頭部から生える手が計十本まで増えて、各所に大きな目玉ができている。
 あれで視野を広げているのだろうか。
 元は人型だった部分はただの肉塊となっていた。
 アスファルトに削られてドロドロだ。
 急速な嘔吐感をなんとか耐えて、私は鎖原に報告する。

「どんどん変形してますよ、あれ」

「執念深い怪異はあらゆる手を尽くしてくる。まだ序の口だ」

 鎖原はこの状況でも落ち着いている。
 生贄地区に住む彼にとっては日常なのだろう。
 どうしてこんな場所に暮らしているのか。
 ふと気になったが、さすがに訊いている余裕はなかった。

 車は加速しながら通りを走る。
 追い縋る怪異がいきなり手を伸ばしてきた。
 指が車体を掠めて、僅かに揺れた。
 見ればトランクが大きく陥没し、カタカタと音を鳴らして開閉している。

 怪異の指があそこまで歪めたらしい。
 一瞬だったのに、とんでもないパワーである。
 無意識に写真を撮った私は、運転席の鎖原から注意を受けた。

「気を付けろよ。人体を豆腐のように切断してくるぞ」

「危なすぎるでしょ! 生贄地区はこんな化け物だらけなんですか!?」

「こいつは雑魚だ。そこら中にいるレベルだな」

「マジですか……」

 私はげんなりとしてしまう。
 スクープだらけの環境に喜ぶべきかもしれないが、さすがにそこまで逞しいメンタルではない。
 そろそろ本気で帰りたい。
 安い給料のままでいいから、自宅でビールでも飲んでテレビを観ながら寝たかった。
 迫る怪異を前に、私は軽い現実逃避を起こしかけていた。

 そんな時、鎖原に肩を掴まれて引き倒される。
 彼は運転しながら大型の拳銃を持っていた。
 西部劇に出てくるようなリボルバー式でかなりの大型である。
 像でも倒せるのではないだろうか。
 鎖原は前を向いたまま、銃口を後ろへと向ける。

「頭を下げろ。あいつを引き剥がす」

「は、はいっ」

 私は身を丸めて座席に転がる。
 頭のすぐ上で銃声が連続で響いた。
 たぶん六発……リボルバーが発砲されたのだ。
 そっと覗き見ると、鎖原は片手で弾の再装填をしつつ、器用に運転を続けている。
 手慣れた動きは職人芸のようだった。

 私は恐る恐る頭を上げる。
 後方の怪異が離れた場所で転倒していた。
 よく見ると、複数の手から青い血を流している。
 リボルバーの銃撃で負傷したらしい。
 鎖原は弾を正確に命中させて、怪異の動きを阻害したのだった。

「わっ、すごいですね」

「褒めていないでお前も撃て。死にたいのか」

「い、生きたいですっ」

 叱られた私は慌てて座席下の武器探しを再開する。
 ひとまず手に取ったのは、無骨なフォルムの銃だった。
 箱型の本体にグリップが付いたような形状で、持ってみると少し重い。
 私は焦り気味に尋ねる。

「これどうやって使うんですかっ!?」

「サブマシンガンだ。狙いを付けて引き金を絞れ。弾切れになるまで射撃を止めるなよ」

「了解です!」

 私は座席と向かい合うように座り、両手でサブマシンガンを構える。
 片目を閉じて怪異に狙いを定める。
 引き金にゆっくりと指をかけて、いつでも撃てるようにした。
 手の甲を貫く釘が痛いけど気にしない。

 鼓動が一気に速まっていく。
 緊張のあまり心臓が口から飛び出しそうだった。
 駄目だ、集中しないと。
 冗談ではなく本当に死にかねないのだ。
 私は歯を食い縛って呼吸をする。

 負傷した怪異が動き出した。
 白い手を蜘蛛のように使って猛スピードで近付いてくる。
 どこから発しているのか、黒板を引っ掻くような不快な鳴き声を発した。
 吐き気が増幅されるが、手の甲の痛みが現実に引き戻してくれる。
 これが無かったらまた気が狂っていた。

 怪異が距離を詰めてくる。
 今すぐに銃を撃ちたい気持ちを抑え込む。
 私は素人なのだ。
 距離があると弾を当てられないかもしれない。
 ギリギリまで引き付けて攻撃するのが一番だろう。
 その判断は合っているのか、鎖原は何も言ってこない。

 荒廃した交差点を抜けた先で、怪異が数メートル手前まで近付いてきた。
 廃車を巻き込みながら手を伸ばしてくる。
 今しかない。
 そう確信した私は、叫びながら引き金を絞った。
 何かを考える余裕はない。
 弾切れになるまでひたすら撃ち続けることしかできなかった。

 気が付くと私は座席でぐったりとしていた。
 我に返ってサイドミラーに注目すると、交差点に倒れる怪異が見える。
 蠢く怪異は私達を追わず、建物の陰へと去っていった。
 それから一切姿を見せなくなる。

 私は前に向き直って胸に手を当てる。
 鼓動はすごい速度になっていた。
 全力疾走をしてもここまでにはならないと思う。
 私は深呼吸をしながら呟く。

「た、助かった……?」

「ひとまずな。しばらくは追ってこれないだろう。今のうちに撒くぞ」

 鎖原は平然と運転をしている。
 横顔にこれといった緊張や恐怖は感じられなかった。
 私とは正反対のリアクションである。

 しばらく言葉が出なかった。
 弾切れのサブマシンガンを置いて、持参したペットボトルの水を飲む。
 まだ手が震えていた。
 初めて怪異と遭遇して、銃を使ったのも初めてだった。
 そして命の危機に瀕したのも初めての経験である。
 映画や漫画でよく見かけるシーンだが、実際に味わってみるとトラウマになりそうだ。

 私が水を飲み切ったタイミングで鎖原が話しかけてきた。

「生贄地区の洗礼はどうだ」

「なんというか……すごいです。生きた心地がしませんでしたね」

「あれが日常だ」

 当然のように言えるのだからすごい。
 私からは別次元の存在のように思える。
 だから思わず尋ねてしまった。

「鎖原さんはこんな環境で暮らしているんですか?」

「そうだ。もう七年か八年になる。慣れればそれほど気にならない。油断すれば簡単に死ぬがな」

「何か生き残る秘訣とかは……」

「これもインタビューか」

「ええ、せっかくなので記録しておきたくて」

「大した根性だな」

 鎖原が皮肉を込めてぼやく。
 そこには私に対する感心も含まれていた。
 この状態でも記事のために動くとは思わなかったらしい。

 別に職業意識が高いわけではない。
 むしろその逆だ。
 私は少しでも気を紛らわせておきたかった。
 そうでもしないと叫び出したくなるほど怖いのだ。
 いつどこから怪異に襲われるか分からない状況で安堵はできない。

 私は鎖原に質問をしながら移動時間を過ごす。
 その後は幸いにも怪異と遭遇することはなかった。
 鎖原曰く、比較的安全なルートを選んでいるらしい。
 私には見分けが付かないのでよく分からなかった。

「これからどこに向かうんですか」

「怪異が集まりやすいエリアだ。取材的にはその方が好都合だろう?」

「え……いや、その……もう少し安全だとありがたいです」

 私はぼそぼそと意見を言う。
 すると鎖原が鼻を鳴らして提案した。

「怖気づいたか。もう懲りたのなら出口の門まで送るが」

「ちょっと休憩したいだけです! 取材は中断しませんよ。記事にできそうな場所に案内してください、お願いします」

 私は強がってつい言ってしまう。
 それから後悔したが、あえて訂正はしない。

 こうなったら取材を完遂してみせる。
 中途半端な状態で帰還すれば、ただ死にかけただけになってしまう。
 記事にできるだけのネタを集めて、日当百万を受け取ってから堂々と帰るのだ。
 そして編集長を思い切り殴る。

 覚悟を決めると、多少は気持ちが楽になった。
 目的意識で恐怖を誤魔化しただけかもしれないが、今はそれでいい。
 とにかく何かを考え続けることで紛らわせようと思う。

 座り直そうとした際、手の甲が痛んだ。
 釘が刺さっているせいである。
 これが私の命綱だけど、さすがに衛生面が気になってしまった。

「消毒液ってありますか」

「そこに入っている」

 鎖原が座席裏のスペースを指し示す。
 そこには救急箱が入っていた。
 中には一通りの道具が揃っている。
 見慣れない工具や光る液体は、たぶんこの地区特有のアイテムなのだろう。
 下手にいじって悪影響があると嫌なので触らないでおく。

 私は手の甲に消毒液をかけた。
 傷口にしみる痛みに顔を顰める。
 しかし、この感覚が発狂を防いでくれるのだ。
 今は我慢しないといけない。
 片手に釘が刺さったままの私は、息を吐いて救急箱を閉じた。

【第2話】
「生贄地区にて」第2話|結城からく (note.com)

【第3話】
「生贄地区にて」第3話|結城からく (note.com)

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