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子どもにとにかく本を読め!というのは辞めようと思った

私は本が好きだ。
15歳の時に父が買ってくれた「十五少年漂流記」を読んでから文学の世界にハマり、高校時代は毎週図書館に行き20冊程度の本を借りてきては、寝食を忘れて読破していたほどに。

当時の将来の夢は「物書きになること」。
長年その夢のカケラすら掴みかけたことはなかったが、諦めなければ何とかなるものである。
30歳を超えて、見事編集の仕事に就くことができた。
また、こうしてnoteのような媒体に文章を書くこともできている。
素人でも表現の機会を得られるようになったのは、実にいい時代である。
(いつも駄文を読んでくださる皆様ありがとうございます)

国語の英才教育

本を好きになったのは、小説をプレゼントしてもらったこともそうだが、父の影響が大きい。
父はずっと小説家を目指していた。
学生時代は国語のテストで全国でも上位に入るような成績を収めたそうで、とにかくずばぬけた国語力の持ち主だ。

△漢検も準1級を保持している

小さい頃から絵本の読み聞かせなども積極的にやってもらったようで、私も2歳にして「山」「川」など簡単な漢字は読めるようになっていたらしい。
実際小学校低学年までは、学校の国語の授業は簡単すぎてつまらなかった記憶がある。
習う漢字も全て既に知っているものだったからだ。

そこそこの文章が書けるのも間違いなく読書のおかげである。
編集職になり自分で記事を書くときもそんなに困ったことはなかったし、以前人事のプロに面接のための書類(入社希望書?)を添削してもらった時は「この文章読んだら人事担当者は泣くかも」とまで言ってもらった。

だからこそ、我が子たちにも「たくさん本を読んで欲しい!」と思っていた。
だが、最近になってふと思うようになった。
読書は確かに大事だ。だけど「たくさん」読むことだけが正解なのだろうか…と。

本以外の媒体の出現

私の幼少期と比較して「情報収集手法の多様化」が進んだのは間違いない。

もちろん、1番大きなパラダイムシフトを起こしたのはインターネットである。
媒体社が運営するネット記事などもそうだが、ブログやSNSのように個の発信も至る所で行われている。

私自身の情報収集も、本に費やす時間はここ数年ものすごく減っている実感がある。
特に子育てをしていると、中々まとまった時間をとることが難しく、何かを「やりながら」情報が得られる媒体の方が手軽なのだ。
(ラジオとか最近ワーママに人気な気がしている)

やはり物を書く以上は活字に目を慣らしておくことも欠かせないので読書は続けるが、そのジャンルごとに媒体を変えた方が「情報収集」という観点では効率的だし、「学び」という点でもメリットが大きいと最近は考えはじめている。

YouTube大学の衝撃

そんな私の考えを決定的にしたのは、こちらの動画である。

そう、チャンネル登録数241万人(※2020.5.31時点)を誇る中田敦彦のYouTube大学だ。

チャンネルが人気なのは知っていたが、この動画が初見であった。私は純文学の中でダントツに夏目漱石の「こころ」が好きなので、これは観なくては!!!と思ったのだ。

詳しくは動画をご覧頂きたいが「こころ」を正しく読み解くには、当時の時代背景を理解しないといけないという結論に私は衝撃を受けた。
私はこの本が好きだと言っておきながら、実は本質のところを何もわかっていなかったのでは…!という衝撃である。
日本史が大の苦手の私には、その背景を理解したうえで物語を楽しむ読解力がなかったのだ。

よくよく考えてみれば、同じく好きな「アート」においても、例えば宗教画やナポレオンの時代の絵画はそのまま観て楽しむものではない。
テレビやネットのない時代に、絵画はひとつのメディアであったのである。
女性が靴を脱いでいるのは性的に奔放であることを示している…
ナポレオンがペスト患者に手袋なしで手を差し伸べるのは彼の強さをアピールするためだ…
とか、普通に鑑賞してては現代と常識が違いすぎて、そんなこと絶対にわからない。

印象派の絵や現代アートのように、観るものの感性で自由に楽しむものとはそもそもの意味合いが違う。
もちろん単純に鑑賞してもよいが、やはりそこに込められた意味をわかっていたほうが何倍も面白い。
小説で言うと、純文学とエンターテインメント小説の差に極めて近いように思う。

動画であるメリット

情報=文字数とするならば、読書というのはとても効率的だ。動画と本を比べると、本の方が同じ時間で沢山の文字を吸収できる(気がするけど間違ってたらすみません)。

でも、自分が知りたい情報だけがまとまっているわけではないし、かといって上手いこと要点を掴んだまま読み飛ばすのも難しい。

動画(たとえばYouTube)の場合は編集技術にもよるが、サブタイトルなどで何となく知りたいところだけを観ることもできるし、冒頭の挨拶などはガツンとすっとばせる。
そもそも倍速で再生もできるし、1つの動画も基本的には1テーマ・短時間で構成されていることが多いので、自分の知りたいことをピンポイントで調べやすい

もちろん、情報の正しさには注意しなければいけないが、まぁ人気のチャンネルのものはそうそう間違ってないような気もする。

私の「こころ」のように、YouTubeという媒体があったからこそ、その深掘りができたというメリットもある。
「夏目漱石の「こころ」を読み解く」みたいな分厚い専門書があったとしても、きっと手にとっていない。
動画のライトさ、そして語る人(あっちゃん)のキャラクターがあってこそ学びの機会を得られたのである。

子どもたちが成長した世の中を想像する

36歳の私ですらそうなのだ。
息子たちが成長したときには、もはやメディアの常識はまるっきり変わっているだろう。

実際3歳の長男はたまにテレビ番組を見ているとCMを「スキップして」というようになった。
我が家ではテレビ5%、YouTubeやNetflix95%の生活なので、それが彼にとって当たり前なのだ。
こうやって、間違いなく行動変容が起こる。
もっともっと子どもたちは「欲しい情報」だけを得ようとするだろう。
教育のありかただって、旧態依然のやり方ではそのスタンスに合わなくなっていく気がしている。

YouTube大学を観て思ったのは「これ普通の国語の授業聞いてるより面白いな」ということだ。
残念なことに、学校にはイケてる先生とイケてない先生がいる。
国語や歴史はいかに事実の裏側にある物語を、生徒たちに興味深く教えるかがポイントであるように思う。
だが、ただの暗記・詰め込み教育になっている授業も少なくない。

公立校に通えば、先生との出会いも運任せだ。
もし子どもたちがイケてない先生に当たってしまった場合、私は親としてはっきりと「その授業は真剣にきかなくていい」と言う。
教科書を読めばわかるような授業を懸命に聞くことに価値なんてないからだ。
限りある集中力をそんなところで消費するのは勿体ない。
その学びを取り返せるコンテンツなんて世の中に溢れているのだから。

学びに応じた媒体を選ばせる

読書が決して無価値なわけではない。文章力、読解力は社会に出てからも必要なわけだし、やはりボキャブラリーを増やすには文字として認識できる読書は他のメディアに比べて有利であるように思う。

私の個人的な見解でいうと、大人で言うとビジネス書など特定の知識を得るための学びは、まずは動画で十分である気がしている。
そこからより専門的に知りたいトピックスが出てきたときに、本を読めば良いと思う。

子どもたちにも、勉強のために本を読ませることはなるべくしたくない。
面白い小説などストーリーにハマれば、読書は難しいものじゃない。

そもそも読書感想文などで、小難しい純文学などに手をつけさせるからいけないのだ。
言葉もわからないし、共感はできないしで読み始めて10ページで手が止まり、そのまま本嫌いになってしまった…というような例は少なくない。
難しい文学書なんて読まなくていい。だったら東野圭吾や伊坂幸太郎を読めと息子には言う。
文学作品を教養として知識を得たいなら、もしくは学校のテストで必要ならば、動画やウェブの記事や漫画でチートしてしまえ。
そんな風に子どもたちには伝えようと思う。

△このシリーズすごくおすすめ

今思えば、父がくれた「十五少年漂流記」は中々いいチョイスだった。
やだな〜〜難しそうな海外の本なんて!最初はそう思っていた私だったが、結果途中から夢中になって読み続けた。
集中は疲れるけど夢中は疲れない(って俵万智の息子が言ったらしい)とはこのことだ。

私も私なりの「十五少年漂流記」を探して、いつか子どもたちにプレゼントしたいと思う。
来たるその日が楽しみである。

本代に使わせていただきます!!感謝!