人生に光をもって、才能や自分の良さを、もっと生かして。
自分のなかの何かが目覚めた日、それが昨日であった。昨日は色々なことに気づくことがあった。そのことで、心が今まで包み込まれていた繭から脱皮しかかっていることを感じる。才能の目覚め、ほんとうの自分を目覚めである。
今までは周りと同調すること、合わせること、抜きに出ないことをしていた。それは本来の自分の姿などではなく、いわば我慢ベース、忍耐ベースの自分の表現の仕方であった。周りより出ると、杭は打たれるが如く、恐れ、才能を生かすことができなかった。
自分は本来やりたいことでも、ねがっていることでも、祈りであっても、まず周りがどうでるか、出過ぎじゃないか、やりすぎてはいないか。そんな心のなかの正しいのか、間違いなのかわからない声に振り回され、「どうしたらいいのか?」と立ちどまってばかりいたのだ。
それは両親や家族、学校、あらゆる情報媒体から照射される、不気味で不自然なエネルギーを一身に浴び、抵抗することもできずに、生き抜くために身に着けてしまった、あらゆる”カンチガイ”の影響でそうなってしまっていた。
子どもは抵抗できず、両親の庇護がないと生きられない、そんな力関係の中で望まずとも屈しなければならないあらゆる場面を経験してしまった。
とまぁ、書いているのだけど、今まではその重力圏から出ること、をあまり考えてこなかった。今でも助けてもらっているし、自宅にいるので、生活には困らない。そのためか、今に満足したというのか、惰性のように生きていたところもあった。たとえば、夢を持たないとか、目標がわからない、とかみたいに。
だけど、だ。そんな教室や家族の中でみにつけた、嘘か誠かわからないような価値観に縛られて、ほんとうの自分を抑圧することに、自分のなかで我慢ができなくなってきている。
今は正直、自分自身の望まない生き方をしている、という自覚、センスが生まれた。自分の本来性に従って生きたい、という強烈なウォンツが顔を覗かせ始めた。
今はよい時代らしい。生き方をえらべるそうだ、そこらじゅうでそんなことを何度も、なんども聞き、読み、頭に放り込んできた。
だけど、自分の実感として、選択肢が少ないように思えてしまう、というより流されるように生きていた部分も大きいし、「選択権」を放棄することが”適応”することだと教わってきたところがある。
今は自分の人生の過渡期というエリアなのだろう、グラグラ揺れる橋を渡りながら、あっちにはきっとなにかがある、あそこに行けば何か見えるもの・感じるものがあるはず、と。模索している。
さいわい信じるものがあるため、道はスピリチュアルな力でひらかれていくことだろう。
光を信じてきて、よかった。
人生捨てたもんじゃなかった。
「今までよく頑張ってきたね、じぶんよ」
そんな感じだ。
今までの努力が報われ始めていることを感じる最近。
ありがたい、ありがたい、神様に感謝である。
信じる道を行くこと、自分の生きる道を持つこと、
そして闇のなかにあっても、光を信じ見出すこと。
人生はそんなに暗いこと、悪いことばかりの世界などではない。
そう思うとしたら、過去の体験や感じてきたことが見せる、幻だろう。
生きることは明るい、輝いている、そして豊かだ。
その感覚がすこしずつ取りもどされてきている、光を感じる。
時間はかかったけど、道は間違っていなかったことを感じて、
ひと安心。
あなたも自分の信じる道を歩いてください、
その道が光につながっていることを信じて、
どうぞ歩みつづけてください。
それが本物の道であれば、かならず、
人生がYes!! になって行きます、
ぜったいの絶対に^^
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