何が私を駆り立てたのか [天然極彩色]
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何が私を駆り立てたのか [天然極彩色]

ユウキイシダ

私の名前は石田祐規と言います。名前だけでも覚えていただけたでしょうか? 名前を覚えたところで、僕のことについて何も知ったことにはなりませんが。齋藤恵汰が12年前に言っていました「人には分かり合えないという絶望が横たわっている。それをどのように無視するかがその人の人生を決める」と。

僕もたくさんの人とラポールを築いてきました。幻想だとしても、この観測こそが余波を与えると信じています。渋家を通じて60人近い人とともに生活を通じて信頼を作って来ましたが、人間はどこまでもいっても孤独。なのかなぁ。

さて、前回のあらすじはこちら。

「善」と戦う

悪魔と天使について信じるようになりました。概念的なものでも、物質的なものでもありません。DNAのようなものです。この二つの概念が遠い昔、人間に入り込んでこの勢力がいまだに人間を通じて戦っている……そんな観念を持つようになったのはつい最近。それがかすかに残っているのが、日本神話だったり聖書だったり、エンリルとエンキの話だったりするのだろう。最近はそんなことを考えている。映画『天気の子』は悪の目線から描かれて、法外のシンクロを称揚していた。僕がこの映画に出演したとして、主人公の二人組を倒せただろうか。東京を水没から救えたのだろうか。救えたとして、僕の姿はどのように報道されるのだろうか。

ナハウスの復活

電話がかかってきました。新年早々なんでしょう。「あけましておめでとう」ってございやんすかね。ナハウスが昨年末にオープンしていたことはTwitterを見て知っている。

2019年6月に閉じたナハウスは、契約上の問題を乗り越え、同じ場所で2020年12月に再オープンした。1年半ぶりの再開です。手塚太加丸よ聞こえているか。あの日あの時お前が借りた最高の物件はいまもバトンを繋いだぞ。

「あけましておめでとう」そんな言葉ではなかった。内田未樹からだった。女の子が泣いている。ナハウスのオープニングパーティーでいきなり泣き出したらしい。話しを聞くと、捺冶とのトラブルを思い出して辛くなったんだと。その場で「そうか、ごめんね」と謝って本人確認するねと捺冶に電話。聞いてみると、事実はそうではない、と。その場にいた第三者の台湾人の女の子にも聞いてみたりした。

もう2021年だぞ。マジでくだらないことはやめてくれ。そうやって味方増やしの学級会はやめてくれ。内田未樹の「目の前の人に寄り添うやさしさ」を、菅谷聡の「どんな問題も真摯に寄り添うやさしさ」を、どうか搾取しないでくれ。そして俺から優しい言葉が聞けると思ったから電話したのか? もうげんなりだよ。それで‪増田捺冶‬のイメージを修復するのはこっちに回ってくる作業。生涯でもっとも強い怒りを覚えた。こうして思い出しながら、このことを記述するのも心臓が痛い。逃げ出してしまいたい。電話で2時間、‪増田捺冶‬は泣いてたぞ。舐めやがって。男女関係を笠にナハウスのみんなを味方につけるのはさぞ楽しかったでしょうね。俺はそんな甘くないからな。

この通話は渋都市の事務所でしていたので、たまたまとしくにさんが聞いていて、画面越しに‪増田捺冶‬と話してもらった。としくにさんは「ああ、その子が捺冶に振り向いてもらえなかったんでしょ」と的確な分析。僕もそうだと思う。コミュニティに関する理解能力がずば抜けて高すぎる、このおじさん。

この事件に関しては、その子の彼氏が一喝してくれてなんとか無事を収めた。ありがとう。おれは殺人鬼にならず、今もシャバで日常を送っている。

渋家、やっちゃう?

年末ごろからとしくにさんと今後のことについて話していた。渋家が大変そうなので、としくにさんと齊藤広野の合意で渋家を閉じることになった。さて宙ぶらりんになったブランド「渋家」をせっかくだし何かで取り扱いたい。大喜利とまではいかないまでもアイデアを語る時間が何度かあった。(クヌギだけ復活、リビングだけ復活、むしろとしくにさんの家が渋家?)などのアイデアの中に、あるとき「(10代目渋家代表の)KENTがいまAirBnbを転々としてるらしいよ」というきっかけから、日本中を移動する渋家を着想した。それが一番しっくりきたしピンときた。全身から何かが吹き出るのを感じた。出会いのランダム性が高く、日本中のAirBnbに詳しくなれば本を書けるし、「風の時代」の実験体だ。としくにさんは会社が順調に成長していて、面白みのない会社になってしまうことについてずっと悩んでいた。気づいたら西田篤史もいなくなり、齋藤恵汰も役員を抜けて【偶然担当】は自分だけになっていた。この会社が面白くなるもどうなるも自分にかかっている。渋都市のルーツである渋家が存続することは、霊的な何かによって両輪のような気がしていた。渋家と渋都市の連携はとうに行われてなくなっていたが、見えない鎖で繋がっていて、渋家が終われば渋都市に影響が出るし、逆もまたしかりだと感じていた。

「一緒に移動する人を連れて行ったほうがいいと思う。藤田直希とか今井桃子とか連れて行ったらいいんじゃない。それが齊藤広野になる可能性もあるね」

了解。いろいろ時間をかけて一緒に移動してくれる人を探していこう。なんだったら地方新聞ぐらいに載ってやる。仮に地方に絶望したとしてもそれは無駄にはならないさ。

また安定した生活から遠ざかっちゃうなぁ。でも、そんなの関係ないね。神様がそうおっしゃっているんだろう。環境を変えることの恐怖はとっくのとうに麻痺してる。エジプトだろうが、インドだろうが行ってやる。

齋藤恵汰ととしくにの関係もなぜかとり持つ役割もしていたので、3人で話して、まずは齋藤恵汰と本を作るミッションも並行して進めようという話になった。このころから齋藤恵汰は金沢に出入りしていて、なかなか忙しそうになっていた。

渋家は崩壊していた。

何度か渋家に足を運ぶうちに察していたが、みんな相手のことを尊重することを言いながらそれぞれが相手を嫌っていた。ギスギスした中学校のクラスという感じだ。押すも引くも選択肢が合議できず、全員が疲弊していた。これは言葉では表せない状況だと思う。端的にいうと「渋家の形」をしていなかった。しかしそれを言うと老害になってしまうので渋家では言わなかったけれど。もしかしたら僕がそう思ってるだけでなにか新しいものが新世代から出てくるのではないかと信じたかった。

とはいえ、15代目の齊藤広野は耐えに耐えた。運営費が集まらず、半年近くも自分で家賃を負担し、決して誰も追い出さず辛抱強く待った。すごい。僕には絶対できない。愛のパワーがとしくにさんレベルだ。とはいえ、それでも資金的な体力がつきた。渋家は1月末に解散することが決まり、メンバーはそれぞれバラバラに散っていった。齊藤広野は渋家で燃えるような想いを体験できたのだろうか、仲間とともに駆け上がっていく快楽を感じれたのだろうか。もしかして渋家で辛いことばかり担当してトラウマになっていないだろうか。それがとても心配だった。

インタビューによると彼は渋家がトラウマにはなっていないことが分かりひと安心。「なにも事件が起きていないのに人々が憎しみ合い」「伝統とは火を守ることであり、灰を崇めることではない。」などの生々しい言葉がその壮絶な体験を想像させる。渋家を引き継ぐ者として、最後にたくさん齊藤広野とお話しして、各種SNSアカウントやWebサイトの引き継ぎをした。

初期メンバーで渋家代表を経験していないのは、僕と中島晴矢だけなので、なんとか自分なりの責任を果たすことができたのかなと感じていた。ゆっくり休んでくれ。コミュニティの維持なんて大変なだけでちっとも報われない。むしろ周りから恨まれたり、憎まれたりする。でも、たまにある一瞬のキラメキを忘れられなくて、あの高みを味わえるなら日常に戻ることなんてできない。僕もそうだとおもう。僕も被害者の一人だ。でも、もう戻れないから。

マイケル・ジャクソン対金星人

電話がきた。上梨裕奨である。僕が形を変えて渋家を延命させること、日本中を移動することを齊藤広野から聞いて上梨も同じことを考えていると連絡してきた。同じことをやるなら連絡したほうがトラブルがないだろうということで、一度、新宿の居酒屋で会うことにした。上梨って、たしかドミューンの放送のときに騒いでた人だよな。どうしよう。面倒なことになったな。いや、むしろ楽しむか。さてどう話しを持っていくか。会社からは渋家の代表をやるということで予算を切ってもらっている。でも、この一筋縄でいかない感じがいよいよ「渋家はじまったな」感があって楽しかった。

渋家存続会議は新宿にある謎の居酒屋で開催され、上梨が新生渋家に連れて行きたいメンバーを選んで呼んでくれていた。話しを伺うと、上梨はかなりやる気が高く、都内を転々を移動したいらしい。その他のメンバーも渋家でやり残したことある人々だ。

今井桃子は「齊藤広野と上梨裕奨の両方がいるから渋家が好きだったのに・・・」と感想を述べていて、そうだね、分かるよ、となった。僕も渋家のことってよくわからないけど、両方いるからいいんだよな。藤田直希はメンタル的に鬱期らしく、酒をぐびぐび飲み顔を真っ赤にしながら何も喋らなかった。

人間が取り扱える人数ってのは決まっていて、それはきっと6人まででこうして少人数で始まるのが良いのだろう。とはいえ、上梨は渋家の歴史や文脈を理解しておらず、いろいろ齟齬が発生しそうなので飲み会の最後に牽制をかけた。

「別に名前変えてもいいよ。渋家という名前にこだわる必要もないし、過去のしがらみも大変だよ」

「いや、それじゃ意味ないっしょ。」上梨裕奨は自信を持って答えた。正の遺産、負の遺産すべてを背負う覚悟ができてるんだね。ならば譲ろう、渋家代表を。

結局、古いメンバーがやるより、新しい人がやるほうが円環構造が閉じない。それは魅力がある。下馬評で上梨はかなり評判が悪かったが、としくにさんにもなんとか言い訳をつけよう。ダブル代表も上梨から提案されたが、二人いてもメディアへの見せ方が謎すぎるので辞退した。そこで名前だけでも使えるよう「渋家:別荘」ということで、僕の日本全土をめぐる旅が始まった。

渋家大阪編開幕

募集しても一緒に移動してくれる仲間が見つからなかったので、ひとまず保留期間を取ることにした。ツイートにファボして興味がある人には資料を送った。3月末までは大阪にいるので、興味ある人は合流してください。と書いた。思ったより移動できる人ってのは少ないものなのだ。

渋家におけるメインコンテンツは人だと思う。本当はだだっ広い空間を借りて、だらだら寝っ転がってたら人が集まってだらだらするのが良いのだが、それは大学などの基礎コミュニティがあってこそのやりかた。地方に来たらただの無名。誰も遊びに来てくれはしない。だからまずは東京から人を呼び、人がわいわいしている空間に大阪の人を呼ぶことにした。毎日が飲み会になるのが理想だが、今はスケジュールを組んで少しずつ地方で輪を広げていくしかない。参加する人間が一人でも増えたら「毎日展示やってるよ=壁に作品を飾る」などの遊びに行きやすいギミックを追加しよう。人も2日に1人ペースでしか遊びに来てくれず、なかなか困難を極めた。地方で人を集めるのは東京のように一筋縄ではいかない。どんな地方だってやる気のある人は1人はいるはずだ。

Airbnbは長期間借りるときは早めに借りないと良い物件が取られてしまう。たとえ1日でも予約されると、その月は1ヶ月丸々借りることはできない。なので大阪についてすぐ次の1ヶ月の移動先を決めることになった。まだ人が集まるか、ボルテージがどうなるか分からない状態でさらに奥地(金沢・香川・広島・博多)を攻めるのは危険だと判断し、2ヶ月目は大阪から近い京都にすることにした。移動する人が確実に確保できないで行くのは危険だ。この判断が正しかったのか今でも分からない。

渋家:京都修学旅行編

見せ方として「期間限定で大阪で渋家やるよ」レベルで抑えていたので、次は京都でやります、ではなく「好評につき京都で続行!」という形で告知。物件の位置がベストポジションをとれず、想像以上に京都はAirbnbが高い。東福寺駅近辺であったが、理想は出町柳駅だった。京都大学近くが取れれば強かったはず。この時の困難を踏まえて3ヶ月目の福岡は速攻で押さえることになる。

京都なら齋藤恵汰も来れるかなと思い連絡してみたけれど既読だけついて連絡がない。忙しいのだろう。急かしてもしょうがないし、京都でのネットワークに専念しよう。京都にはさくら荘や、ファクトリー京都などの土壌があるのを知っていたので今の情報を得られるのは嬉しかった。住まないと分からないことってけっこうあるもので、京都の人はたしかに排他的で不寛容で差別的なのは街を歩いていても感じることができた。街には「禁止する」張り紙しか存在しておらず、中には同じ街の人を攻撃するような張り紙まで……。最初は「ウオ〜…(ヤベェ)」と思っていたけれど、滞在してみると、良い街を維持したい気持ちの表れなんだと解釈するようになった。沖縄とはまた違った「地元を愛する気持ち」がそこには存在していたのである。

京都ではカレンダーでスケジュールを立てたりせず、その場の赴くままに行動した。人が来たら、その場でどこに行くかを決め、行けそうなコミュニティがあれば連絡をとって遊びに行った。イベントに適した家でもなかったので、オープニングだけ家でやって渋家勢で他のコミュニティに遊びに伺わせていただく形になった。この形はとても自然なスタイルに思えた。家に拘らず、外に出ていくのも健康的でいい。「修学旅行」という立て付けだったので、いろんな場所を開拓した。おかげで長期滞在してくれる人が何人かいて大阪ほど寂しい感じにはならなかった。

次の目的地は福岡で、いよいよ本州から離れる。奇跡的に愛媛の増沢大輝と電話しているときに興味のあるコミュニティを九州に見つけていたのでそこを訪ねる予定だった。我々とはまったく違うコミュニティのあり方を模索していて、代表の方が齋藤恵汰にそっくりだというのだ。それは期待せざるを得ない。京都の夜は更けていった。

究極の選択

そんな折、としくにさんからLineで「渋家にピンときていない」という連絡をもらい、急遽東京に戻ることにする。僕も、地方展開の難しさがわかってきたので、なにか東京で進展があり、もっと大外から渋家を盛り上げる作戦を立てたかった。

ところが会って話してみるとぜんぜん毛色が違い、不思議な噛み合わなさがある。どうやら仕事内容の発注に齟齬があり、僕ととしくにさんの目指している先が話していくうちに明らかになってきた。としくにさんは書籍作りのほうを優先して進めたかったようで、その視点からみると僕は2ヶ月間なにもしていないことになる。しまった、なんでそこに気づかなかったんだ。物理的に距離があると、ずれを修正しにくいものなのか。渋家を盛り上げていく中で、パーツを噛み合わせるように製本していこうと思っていた自分にとってそのずれは修正できないものとなっていた。

としくにさんの分析曰く、会社がそういうステージに入ってしまったのと、流行病によって速度が上がってしまったことが挙げられるそうだ。そりゃそうだ。その結果が2ヶ月という速度。恐ろしい速さである。とはいえ、いきなり仕事がなくなってしまったので、次の発注として、固定仕事を最低3年はして欲しいとのこと。ふむ、どうしたものか。「1時間考えてみて」と齋藤恵汰に言われベランダに出て考える。

(固定役職となれば、経理か総務か、huezのマネジャーサポートあたりだろうか。3年か……。今32歳だから、事務仕事のできる35歳がそこに立ち現れるわけか。人生のルートとしては妥当だな。技術があれば孤独にはならない。そう外間光くんに沖縄で言われたのを思い出していた。あるいは社内座付のカメラマンあたりか)

まてよ。

これ俺、一人で決めれなくないか?

社内に入れば当面はずっと動けなくなり、叁朝屋の負担を‪増田捺冶‬に押し付けることになる。まずは捺冶に電話して相談しなくちゃ。気づき、携帯を持ってとしくにハウスの外に出る。‪増田捺冶‬に電話する。すぐ出てくれる。こういうタイミングのときはちゃんと出てくれる。ありがたい。

「ちょっと重い話したいんだけど、時間ある?」

と僕が電話口で言うと、捺冶は「あるよ」と返してくれた。そしてこの一時間で考えたこと、自分の人生がもう限界なのではないかということ、どのような選択をするべきか。もっともっと色々なものを話した。すでに僕は人間の形ではなくなっていた。

まだいけるのかな?引き返した方がいいのかな?それともこのまま叁朝屋にお金は入れられるように働いた方が良いか? ──そうか、大家さんが更新を拒否して、新しい物件を探しているのか。手伝えなくてごめんな。俺はどうしたらいいんだ。何が俺を駆り立てるのかぜんぜん分からないんだ。人生あきらめたほうが賢いのか?ここが世界の淵なのか?

「うん。まだ行けるんじゃない。ぜんぜんやれるよまだへーき」

ふと、足の震えが止まった。そうか、そうだよね。そんなことに俺、惑わされていた気がする。俺は何を恐れていたんだ。年齢を重ねて目が濁ったか。なるようになってダメだったら死ぬ。それだけじゃないか。まだ戦えると捺冶が言ってくれている。俺が先に死んでやる。「ありがとう。じゃあまた……台湾で」と言って電話を切った。としくにハウスに帰る歩みはさっきより少しだけ早かった。

000なつや

WE ARE 棺桶ゾンビーズ

僕が発話を終えると、としくにさんは「予想の斜め右からきたなー」と言って齋藤恵汰を一瞥する。齋藤恵汰は「ゆうきがそんなに捺冶と仲が良いとは思わなかった」と驚いていた。僕は「会社とマッチングできなくてごめん」と謝った。この会社を日本で一番面白い会社にすると誓ったはずなのに、ぜんぜんうまく機能しなかった。能力も経験もセンスも足りない。

なんて自分は頑固な人間なのだろう。資格でも取って交換可能な人材になれたらどれだけ幸せだったろう。

神泉駅で始発を待っている間、僕は1967年の映画『卒業』のラストシーンを思い出していた。結婚式から花嫁を盗み出したのは自分だってのに。

──どうすんだこれから。

叁朝屋の拡張 → やっぱ移転

叁朝屋はメンバーが増え、夢に見ていた拡張を行う。徒歩10秒の場所にもうひとつ物件を借りて、地下はクラブに1Fと2Fはアトリエにするという計画だ。いざというときの資金調達として、Tシャツを作ったり雑誌を作ったり忙しくなりそうだったが、どうやら貯蓄がかなり溜まっていたらしく、5月にみんなで多めにお金を集めれば良いそうなので、僕はいつもより1万円多くお金を増田に振り込んだ。飛べ。2年で叁朝屋が「飛べる」なんて鬼クソラッキーボーイだ俺たちは。5人でスタートした叁朝屋は、今や18人にメンバーが増えていた。

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家には三つのフェーズがある。箱としての家と、小さなコミュニティ。それからそこに肉がついて「目的」や「機能」が付随する第二フェーズ。そして、機能ごとにコミュニティが分かれていく第三フェーズ。このフェーズ移動に立ち会えることが嬉しかった。(正確には僕は日本に閉じ込められていて立ち会えていないのだが笑)

話が進んだところで、今の家の大家さんが契約続行できないということを伝えてきて、現場は大混乱。なんでよ。新しく家を探すことになった。‪増田捺冶‬は限りある時間の中、素敵な物件を見つけた。「草御殿の閉鎖」のときといい、台湾の大家さんは本当に自由だぜ。その自由さのメリットもデメリットも享受してるからいいけどさ。これが内見のときに‪増田捺冶‬が撮ってくれた映像。

広い。ベランダも広い。地下つきで、音も出せる。どんな状況も突破できる‪増田捺冶‬の胆力にありがとう。1年も叁朝屋のこと任せっきりですまない。退去と片付けと、引越しが進んでいく。あの落書きだらけの壁と部屋にもう会えないのが寂しい。まさか、2020年6月に東京に帰ってきて、あの部屋に一度も帰れないだなんて思ってもみなかった。人生って本当に何が起こるか分からないんだな。

新しいショーバイ&商売

台湾政府は新規ビザの発行を停止していた。この間に、日本でできることをしておこう。デザインのサブスクをいくつかゲットしておこう。と提案し、捺冶からOKをもらった。これまで、デザインの仕事はどれも単発で、どのクライアントも‪増田捺冶‬の才能を100%引き出せていなかった。これはお互いにとって損失だ。月額固定で、‪増田捺冶‬を使い放題のほうが良さが生きると思う。サイトのリニューアルのスケジュールも進んで、新しいデザイン案がどんどん上がってきた。

そして僕自身はどのように稼ごうか。街を歩いていて「旅行代理店」って変だよなって思っていた。旅行の計画と手続きだけしておいて、肝心の「旅行に行く」の部分を金を払ったお客さんにやらせるなんて。まるでお客さんに家具を組み立てさせる「IKEA」みたいだ。最後まで責任もって仕事しろよ。

そこで‪増田捺冶‬に「完全旅行代理店」というのを話してみた。旅行の計画から、その実施まですべて自社で行うというものだ。お客さんはお金を払って、誰かに代わりに旅行に行ってもらう。行き先と日時だけ指定してもらって、旅行の内容と実施はこちらで行う。旅行に行きたいけど行けない人にとってはうってつけのサービスだ。「完全旅行代理店」というネーミングも気に入った。ビジネスのアイデアを出すのが苦手な自分にしてはなかなか確度が高そうだ。お客さんが迷子になったり、怪我をしたり、トラブルに巻き込まれたりなどのツアーコンダクターにつきまとうリスクも無く、元手も少なく済むし在庫リスクもない。かなりベンチャービジネスとしてありなのではないだろうか。問題は〝需要〟があるかどうかなのだが。

「そんなことより、"ゆうきサブスク" やりなよ」

‪増田捺冶‬は僕のアイデアに一瞥も興味を示さなかった。替わりに僕の脳みそからは絶対に出てこないアイデアが出てきた。「ゆうきサブスク」って何? 俺をサブスクする会社ってなんなんだよ。マジで。

言葉が生まれる現場

ゆうきは物語が武器なんだから、これまでのストーリーをnoteに書きなよ」と言われた。そうだな。そうしようと思う。会社を辞めてカッカした頭の自分より、今は冷静な‪増田捺冶‬の判断に全部のっかってみよう。こういうとき「サレンダー精神」が入った僕は、驚くほど頑固さが抜けて素直になるのだ。

「わかった。これまでの人生をnoteに書いてみる。全部書くとボリュームがハンパないから、2016年から書くね」

理由も意図もわからないまま僕は人生をnoteに書いていくことになった。「2016年〜2019年」と「2019年〜今」の2記事に分けて書いてみよう。今の沸騰した自分を整えるのにはいい時間だ。その日から自分の過去と向き合うことになった。「こんなの1日で書いたるわ!」と思ってたけど、なんだかんだ書き終えるのに5日間かかった。

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あ・か・ら・さ・ま

東京より3ヶ月はやい夏が台湾にはやってきていた。そして全体主義の不穏な影も一緒に……。

戦時中の日本のようなことが台湾で始まっていた。もちろん始まるずっと前から‪増田捺冶‬は警告していたのだが、誰も真剣に聞いてくれる人はいなかった。みんな喉元を過ぎてから「いや〜実はおれも反戦だったんだよね」って言うつもりなのだろうか。どんな顔で?

台湾がどんどんダメになっていくのが遠くからでも悲しかった。同性婚をアジアでいち早く解禁したときは、どこよりも輝いていたのに。これでは日本の「五人組」と同じ。善良な市民をギスギスさせて何が楽しい。これまでの「まとも」がイデオロギーやブロバガンダによって散々ずらされてきた日本を見ていなかったのか……? 日本人は戦後の「闇市」で生き残ってきた人たちの血──つまりルールを破ってでも生き残るという、なぜか将来にわたって引き継いでいく日本人のDNAがある。20時以降営業できないという飲食店いじめには、こっそり行って真っ暗な店舗の中で食事をするという友人たちの熱い姿があった。良い子ちゃんたちと戦わないと、我々の子供や孫に、外食文化や旅館文化は残せないだろう。そうして長年日本は全体主義と戦ってきた。台湾にその土壌はない。政府がおかしなことをやり始める一歩手前でせき止めなければならない。どんな大きなダムも、蟻ほどの穴から崩壊する。徳川家康がキリスト教を徹底弾圧したのも、10年後20年後の未来を見据えてだ。どうか台湾がまた花開く日を待ち望んでいる。

ナツヤの空、UFOの夏

‪増田捺冶‬の主催する映像クルーR8ISE(ライズ)が着実に育っていた。もうどこに出しても恥ずかしくないプロフェッショナル映像チームだ。

悔しいよ、なんで隣に僕がいないんだろう。

セットも照明も素晴らしい。こなれてきた。おぼつかない手つきのショットはひとつもない。映像全体に自信が満ち溢れている。こういった映像がずっと見たかった。いや、こういう映像こそ、見たことを忘れてしまうものだ。忘れたものだけが記憶となり、神話になっていく。

それじゃあ最後に‪増田捺冶‬の最新作「THE BORDER」を聞いて終わろうか。ここまで文章を読んでくれてありがとう。1記事あたり1万文字だから、およそ4万文字を読んでいただいたことになる。ありがとう。

生きてりゃ、それでいいんだな。

宇宙の果てのレストラン

よし。文章を書いたら少し元気になったし、藤田直希と今井桃子にでも会いにいくか。なぁ、藤田直希、文章を書いてくれよ。

藤田「誰に向けて書いたらいいか分からないと書けない」

誰に向けてでもいいんだよ。空中に向かって書け。俺が読みたいんだ。俺が書いて俺が物語化しちゃったら、俺はつまんねーよ。藤田直希から物語を教えてくれ。

藤田「まとまった文章が書けないんだよね」

わかった。じゃあツイートでいい。裏アカウントを作って俺と今井桃子しか見えない鍵垢でいい。写真はみんな撮るけどさ、そのときの感情は記録しないし、いつか忘れちゃう。3年前の感情、10年後に思い出せるか?

藤田「どこから書いたらいいかな」

どこからでもいい。

藤田「2017年にガレージでゆうきさんが泣いていたところから書いていい?」

ああ、いいぞ。

藤田直希視点の物語が始まった。

セックスしようよ

さて、物でも売るか。年末から作りかけのzineがあった。それを完成させよう。菅井早苗に1ヶ月限定のwebショップのアイデアを話したら「私もやりたい!」と言ってくれたので、俺一人じゃなくていろんな人を誘ってみよう。つのぴーも誘って、大桃耕太郎も誘って、毒キノコピンクも誘って、特設サイトを作ろう……作った!

信頼できる仲間と本を売ったり、石を売ったり、よちよち歩きから始めていこう。稚拙だって笑われたって構わない。「人と混ざりたい」それだけが私を駆り立てているのだから。

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ラッキーボーイじゃん!
ユウキイシダ
写真家のユウキイシダでございます。写真はサイトをごらんくださいませ。