【旅レポ】山陰の「民藝」を探る旅(前編)
暑い。
9月に入っても最高気温は優に30度を超えている。
むむ〜っ、そんなこと知ったもんか!
ぼくたちは軽トラに乗って走り出した。
冷房はついてないけど、
窓を開ければなんくるない!
目指すは民藝のメッカともいわれる山陰。
ぼくと友だちの間で今、
「民藝」が来ているのだ。
鳥取大学で民藝についての公開授業があると
教えてもらったのが約一ヶ月前のこと。
それからそれに合わせて旅のプランを立てた。
旅6日+大学4日で、
合計10日間のフィールドワークだ!
1日目
(大阪日本民芸館/国立民族学博物館)
大阪から始まったこの旅。
せっかくだからまずは
大阪にある民芸館に立ち寄った。
民藝の西の拠点として建てられた
大阪日本民芸館には、
国内の工芸品が数多く展示されている。
大きな民芸館だけど年中空いてるわけではなく
春と秋の特別展の期間以外は
閉まっているようだ。
ぼくたちは秋季の特別展が始まったその日に
3番乗りくらいの勢いで
出来立てほやほやの展示を見に行った。
今回の特別展のテーマとなった「筒描」は
藍染の技法のひとつだ。
生地にのりでデザインを描いてから染め、
後からのりを剥がすことでその部分が白く残る。
筒に入れたのりを生クリームみたいに絞り出して
線を描くから「筒描(つつがき)」という。
説明書を読んでたら「長田染工場」の文字が!
後日見学に行く予定の藍染工房だ。
何も知らずに行ったからびっくりした。
初めてあんなにじっくり染め物をみたけど、
なんだかいいなぁと思った。
展示室の入口には館長さんの言葉があって、
そこで語られている民藝の説明がよかったから、
メモった。
民藝のことを調べていると、
「何が民藝なのか」「これは民藝なのか」論争が
よく飛び交っている。
だけど「民藝」の定義を明確化することは、
どこか本質からは外れてる気がしてたから、
この説明がしっくりきた。
特別展以外の展示もすごく見応えがあった。
特に印象に残っているのは「三代澤本寿」の絵だ。
おもしろくて不思議でわくわくして
簡単なデザインをいくつかスケッチしたりした。
自分の好みのものは視界に入るとパッと目が合う。そしてそれをじっくり見れば見るほど
愛着が湧いてきていい気分だった。
なんだかんだ民芸館は2時間くらいみた。
それからお昼ごはんにカルボナーラをたべて、
目も胃袋もお腹いっぱいで民博へ。
民博の展示コーナーはA、B、Cと分けられていた。
ぼくたちは3時間くらいかけて見て回ったけど、
Aの途中までしかたどり着かずにタイムアップ。
それからお風呂にはいってバーミヤンに行った。
猫ちゃんロボットがごはんを運んできた。
かわいいようでかわいくない。
「なんか嫌じゃね?」
と友だちがいう。
チェーン店は個人経営の小さなお店とかと比べると
背景に作ってくれた人や命を感じにくいのに、
運ぶ人まで機械になっちゃった…。
どうなっちゃうんだ!
2日目
(岩井窯/COCOROSTORE)
道の駅でルーフテントを張って一泊して、
いざ鳥取へ。
まず向かうのは「クラフト館岩井窯」だ。
半年か1年くらい前に、
古本市でふと手に取った本があった。
この本の著者がここ「クラフト館岩井窯」の、
山本教行さんだった。
山本さんの本を読んでぼくは
人生のまんなかに暮らしがあるっていいな
って思った。
それはまさにぼくが描きたい人生、
描きたい暮らしに近いものがあると思って、
ここに来ることを楽しみにしていた。
岩井窯の門の前に着くと
ちょうどそこに山本さんの姿があった。
山本さんはぼくたちの車に気づいた。
「おお!熊本から?!」
丸眼鏡をかけたやさしそうなおじいさんだ。
車を停めてクールな鉄筋の門をくぐる。
少し坂を上がると赤褐色の瓦を葺いたお家が
コの字に3棟並んでいた。
まずは坂を上がってすぐのギャラリーに入った。
すると山本さんが話しかけに来てくれた。
「君はやきものに興味があるんかい?」
「仕事にするとかは考えてないけど好きです」
「うちは仕事にする気がないような人は
弟子には取ってないんだ」
ぼくが弟子入りをすると思ったのだろうか、
山本さんはそんなことを言って、
それからこんなことを言った。
「仕事になるかどうかが先ではないと思う」
「ぼくは職業ではなくて生き方を探してた」
「お金のためとか職業としてとかじゃなくて
どんな暮らしをしたいかなんだ」
なるほど。
話しを聞きいては夢中になって
ギャラリーに並ぶ器たちを目で撫で回すぼくたち。
すると、
「まずはあの参考館を見てきたほうがいい」
と山本さん。
ぼくたちは向かいにある参考館を見に行った。
参考館には山本さんがこれまで集めてきた
参考になる作品が数多く収蔵されている。
一度に全部は展示できないから
季節ごとにテーマを変えているそうで、
今季のテーマは「西欧陶磁」だった。
館内にはゆったりとした時間が流れ、
美しいやきものや使い込まれた家具の数々が
心地よさそうにならんでいた。
ひとつひとつじっくりみていたら、
山本さんが説明しに来てくれた。
ヨーロッパの古い陶磁器は
釉薬とは一味違う質感をもっていたが、
これは「塩釉」という技法によるものらしい。
高温になった窯の中に塩を投げ込むことで
塩が蒸気化して陶器がコーティングされるという
ドイツ発祥の伝統的な技法だ。
あるひとつの塩釉の壺は
日本海からたまたま引き揚げられたものだったり、
また別のものは1000年近く前のものだったり。
ずっと昔のものもまるで現役かのように
平然とした顔で並んでいるのが不思議だった。
「例えば生の音楽はその時だけのものだけど
やきものはずっと生のまま残るんだよな、
それがおもしろい!」
と山本さんは語ったていた。
ずっと昔に知らない誰かの手によって生まれて、
知らない誰かが生活の中で使ったもの。
そういうものの背景を想像して見ていると
それがひとつの生き物のようにも思えてくる。
「人の手から離れても、
ものはものの運命を辿っていくんだよな」
ひとは死んでもものは生き続ける…。
山本さんは1枚の紙を手にとって
大きな壺の写真を見せてくれた。
高さがぼくの肩くらいにも及ぶその大きな壺は、
かつて山本さんが車で走ってる時に見つけて
なんとかして持って帰って来たものだという。
「小さな花を見たら立ち止まるみたいなね」
「ものには人の心を動かす力があるんだって、
最近そう思うんだよなあ」
「美しい」とか「心地いい」とか「好き」とか
そういう心の声に耳を傾けて、
描いてきた暮らしがそこにはあった。
すべては生き方に始まって、
そこから自然と生まれてくる。
それが山本さんの信念のようだ。
「暮らし」の中に人生がある。
「暮らし」の中に仕事がある。
「暮らし」の中から作品が生まれる。
本を読んだときに感じた
人生のまんなかに暮らしがあるということが、
自分の深いところに腑に落ちたような気がした。
暮らしが人生の基本にあるって
なんだか当たり前のことのようだけど、
仕事に沿って敷かれたレールの上を行くのが
今の時代では一般的なのかもしれない。
そんなことを思った。
ああそうだ、
山本さんが「手が偉い」と言っていたのは
忘れられない。
自分が作ったというより、
手からものが生まれるという感覚。
自分が主役なんじゃなくて、
自分と相手の心地いい関係性のあいだから
美しいものは生まれるような気がする。
山本さんはこの道50年以上にもなるというが、
まだまだこれからだと言う。
「昨日のことは終わり、明日のことはわからん。
だから今日やな、ははは」
山本さんは時折やさしい笑みを浮かべながら、
いろんなことを話してくれた。
「そういう歳のとり方をしたいです」
ぼくたちがそう言うと
山本さんはにっこり答えた。
「歳をとるのはいいよ😊」
気づけばぼくたちは参考館で2時間も過ごしていた。
お昼時になったのでギャラリーで買い物して
敷地内にある喫茶店でランチを食べた。
大満足で車に乗って出ようとしたら、
山本さんがこっちに向かって歩いてきた。
何かと思ったら手土産にと
おいしそうな梨を2つもたせてくれた。
うれしいな~。
ぼくたちが次に向かったのは鳥取県倉吉市。
倉吉はぼくが免許合宿でお世話になった
思い出の地でもある。
街の中心地には赤瓦と白壁の蔵からなる
古き良き町並みが残っている。
そんな街の一角に山陰の民藝品を取り扱うお店
「COCOROSTORE」はある。
店内には手作りの生活道具が並んでいた。
ほしいものが多くて大変だ。
ぼくは悩みに悩んだ末
結局最初に目についた
国造焼の面取りカップを購入した。
お店を出るころにはもう夕方だったから、
ぶらぶら街歩きして海を見ながら弁当食べて
温泉に入って寝た。
3日目
(出西窯/出雲民藝館/長田染工場)
3日目は出雲にやってきた。
出雲といえば出雲大社。
せっかくだからお参りした。
そしてぼくたちは念願の「出西窯」へと向かった。
山陰は民藝のメッカだと言ったけど、
出西窯は山陰の民藝のメッカとも言える。
山陰が民藝の東京だとすれば
出西窯は新宿か渋谷に該当するということだ。
出西窯は昭和22年に5人の若者が立ち上げた
農村工業の共同体の窯元さん。
運営の指導には柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司、
バーナード・リーチなどといった
民藝運動のコアメンバーが関わっていて、
山陰の民藝運動の中心的存在となった。
その後は数々の賞を受賞して人気を集め、
最近はおしゃれなcafeなんかもできたりして、
ビジネスモデルの成功例としても注目されている。
ギャラリーは2階建てで器がたくさんあった。
ぼくは家族用に取り皿を4枚買った。
そしたら一万円くらいになっちゃったけど、
なぜかうれしくて仕方がなかった。
作業場も見せてもらった。
出西窯は分業だ。
ろくろを引き続ける職人さんのとなりで
高台を削り続ける職人さんがいる。
釉薬を掛け続ける職人さんもいるし、
撥水剤を塗り続ける職人さんなんかもいた。
その手さばきは職人技そのもの。
ついつい何十分も見入ってしまった。
お昼になったので出西窯のcafeでランチ。
おいしいカレーを食べた。
出西窯の後は出雲民藝館に行った。
もともと大地主の家だったという展示館は
建物そのものが見ものだった。
館内には山本さんが話していた
あの大きな壺の実物が鎮座していた。
他にも大きな肥溜めの壺はいくつかあったけど、
今はもうそれを作れる職人さんはいないらしい。
いいものがたくさんあってゆっくり見たかったけど
ちょっと熱くてあんまり長居できなかった。
ということでこの日の最後の目的地である
「長田染工場」へと向かった。
大阪日本民芸館で見た「筒描」のところだ。
ぼくたちが到着すると
五代目の長田さんが駐車場を案内してくれた。
駐車場から工場までの道を歩きながら
「民藝に興味があって旅をしてるんです」
みたいなとこをぼくたちが話すと、
長田さんは少し難しい顔をしてこう言った。
「うちは一応看板には“民芸”って書いてるけど
あんまり“民芸品”としては出していないんだ」
「どうしてもちょっと格式高いというか…」
民芸館に名前があがるような職人さんでも、
そういうプレッシャーがあるのは少し驚きだった。
民衆のための工藝である民藝が形に縛られて、
作り手にとって敷居の高いものになっている。
民藝という名前がブランド化してるのではないか
ということは薄々気になってはいたけど、
長田さんの言葉でやっぱりそうなのかと思った。
果たしてこれは柳が描きたかった
民藝の未来の姿なのだろうか。
長田さんはぼくらふたりのために藍染のことや
筒描の技法について丁寧に説明してくれた。
びっくりしたのは、
筒描をしてるのは今はもうここだけだということ。
大阪の民芸館で筒描の藍染をたくさんみて、
それが庶民の生活によく馴染んでいたんだなと
感じていたから驚きだった。
ただもちろん、
筒描という技法だけが減っているわけではない。
近代の安価なアパレル産業の発展によって
藍染産業全体が収縮している。
藍染には生地を織る前の糸を染める先染めと、
生地になったものを染める後染めがある。
今も残っているのは後染めがほとんどだけど、
昔は近所の紺屋さんに糸を染めてもらって
それを自分で織るということも多かったらしい。
長田染工場のある出雲の街にも
昔はそういった工場が60軒ほどあったという。
また減少傾向にあるのは
藍染をする染師さんだけではない。
藍を栽培する藍師さんや生地を織る織師さんも
同じように後継者不足の課題を抱えている。
藍のシェア率が日本トップの徳島県ですら、
現役の藍師さんは4人しかいないという。
近代の生活様式の変化に伴って需要が低下し
存続が難しくなるという伝統工芸産業の課題と、
ぼくたちはどう向き合っていけばいいのだろうか。
言ってしまえば需要が低下しているのだから、
もしその工芸品が消えてしまったとしても
市民の暮らしにはそれほど大きなダメージは
与えないのかもしれない。
しかしそれでも伝統を失いたくないと願うのは
決して保守主義みたいなものではなく、
近代社会の流れそのものに対する抵抗に
繋がっているものだと思う。