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画家の子供のような絵と子供の絵は全く違います

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うちの子どもたちが小学生の頃、美術の授業の絵の課題の一つに「パウル・クレーの絵から思い浮かべたことを描く」というのがありました。

それは、クレー晩年の線描で、西武デパートのポスターなんかにも使われた「忘れっぽい天使」というものでした。(画像の絵です)

子供たちの作品と並んで、その線描がコピーで拡大されて飾ってあったのですが、それによって、いろいろなことが観えました。

そのクレーの晩年の線描は、まるで子供が落書きしたかのようなもので、発表当初はヨーロッパの理解者たちもどう解釈したら良いかわからなかったらしいのですが、本物の子供の絵と並べてみると何と洗練されて、力強いものか!!と痛く感心しました。

子供たちの絵は自由で、のびのびとしてて、いやみが無くてすばらしかったのです。

しかし、そのクレーのシンプルな、子供が描いたかのような線描が、それも拡大白黒コピーに過ぎないものが、その純粋な子供たちの表現よりも、さらに純粋で透明で「力強い光を放っていた」のです。

そう、「光を放っていた」のです。

わたしはそれを見て「ああ、これが創作家の洗練というものか」と思いました。

いわゆる、画家的な技術の洗練とか、美術業界のトレンド的な洗練、というようなものではなく、濁りのない自分の意思・創作理念・生命力・その他が凝縮状態で、その上で、整合性をもって無理なくすっきり素直に成立している。そういう意味での「洗練」。

これはやっぱり「創作者による仕事に他ならない」。。。と感動しました。

「子供が描いたかのような創作者の絵」と「子供の絵」と言うのは、良く近いものと語られがちですが、実際には全く次元の違う話なのだ、というのを再認識させてもらえました。

今回見た子供たちの絵がすばらしかったから、それがわかりやすかった、というのもあります。

とにかく、良く言われる「子供のような純真さがあれば良い絵が描ける」なんて全くデタラメな話なのだ、ということを、クレーの絵が(しかもただの拡大白黒コピー)証明してくれたわけです。

こういうことが起こるのが、人為による美の力だと改めて思います。


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