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「仕上げ」の見極めはむづかしいですね

「仕上げるべきものと、そのまま残しておいた方が良いもの」が

作品の仕上がりだけでなく、制作のあらゆる段階にあって、その見極めを間違うと、せっかく手がけた作品が台無しになってしまうことがあります。

私もたまに失敗します(しかし、私はあまりそういう失敗はしない方です)

多く、失敗する理由は「思考で判断したこと」ですね。

例えば、既に手がけている作品が良い状態にあるのに、変な欲を出して「もっとやったら、もっと良くなるのではないか?」なんて手を出してせっかくの良いものをダメにしてしまう。

しかし、そこで本当にもっと良くなってしまうこともあるから困りものです。

また逆に、作品の制作中に、思いもつかなかったものだけども、スゴく良いと感じるものが出て来ることがあります。しかしそこで

「。。。これがあっちゃヘンだよね。フツーは無いよね?。。。」

とか

「こんなの、今まで無かったよね?このまま出したらヘンなヤツだと思われてしまいそう!」

。。。などなど【理屈や、自分で勝手に想像した他人の眼】で判断してしまい、作品をつまらないものにしてしまうことも起こります。

「実際にそれがあった方がいいのか、ない方がいいのか」というのを、思考を超えた自分の最深部の感覚で「実際に感知すること」をしないで【思考=経験や知識】で判断するのは、経験のある人なら難しいことではないし、その判断へ理屈もつけられ、心理的にも安心なのでそこに落とし込んでしまい勝ちになります。

眼の前にある、ゾクゾクするようなエキサイティングなものは同時に、作者自身に不安を与えるものなのです。新しくて良ければ良いほど、不安を与えます。なぜなら、作者本人にとっても、それは新しいものだからです。

それはまだ、理屈を持っていないのです。本当に新しいからです。

しかし、人は本能的に、本当に新しいものからは、良さよりも不安や恐怖を感じるものです。例えば、観たことのない生き物に出会ったら、興味よりも恐怖を感じるのが自然です。

そしてその不安に耐えられず、どうしても安心したくて「ゾクっ!」と来るような、せっかくの授かり物を削り取って「ありきたりなものに戻す」ケースが良くあります。

「他人から文句をつけられないような仕上がりになっている」

のは安心ですから。

しかし、そうやって「仕上げて」しまったものは、せっかくの元のインスピレーションが詰まった自分の作品をつまらなくしてしまうんですね。

それは「キレイだけど面白くない」ものになります。

だから、一億人がおかしい!と言ったとしても、本当の本当に自分にとってこれが無いとダメだ、となれば(思い込みではなく事実として)それは残すべきなのです。理解されるのに数十年かかっても。

それは、ある意味必要なノイズや傷なのです。

自分の知識やクセや思い込みは、実はとても感覚の浅いところにありますから、弱いし、流されやすいのです。しかし、浅いところにあるので、思考的には鮮明です。だから、人そのものは思考に流されやすいのです。

しかし、訪れたインスピレーションを察知し感受するのは、精神の深部です。

その訪れたインスピレーションを開花させるために、理屈や経験や社会の常識に屈服せずに、そのインスピレーションを観察し、刺激を与え、開くまでしぶとく粘る。そういう取り組みによって出現した「ノイズや傷」は魅力的です。

それがある作品と「仕上げでまとめてしまった作品」では全然違います。

私は「制作で粘りに粘った結果、産まれた傷」や「一気に出来上がったのだけども、勢いが激しくて出来てしまった傷」のある作品が好きです。

言うまでもなく、技術的にヘタで傷や、歪みが出てしまうとか、そういうものを個性とか呼ぶようなレベルの話ではありません。

必然から来る、とても魅力的な「ノイズ」のようなものを消すのか残すのか、毎度毎度、いろいろな行程ごとにその判断を迫られる、その面倒さと不安に耐えて粘り強く自作に向かい合う必要がある、という話です。

ノイズや傷があるから良いものという意味でもありません。わざわざそれらしく着けた傷は最悪です。

思考を超えて摂理に乗った状態が一番過激で、かつ整合性がありますから、その舟に幸運にも乗れたら、それを信じて向こう岸までたどり着くしかありません。

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