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2013年田中公平氏による “ 仁平幸春論 ”

*2013年に田中公平氏に書いていただいた「仁平幸春論」です。

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仁平幸春の創作姿勢は大変シンプルである。

仁平は

「自分の内部の感覚も含む、自分を取り巻く環境全てを‘’素材‘’として捉える」

そして、

「素材と、それに対面する自分の間の“関係性”によって訪れるものを形にする」

ただそれだけだと語る。

彼は基本的に染色による作品を中心に制作しているが、時に染色だけに収まらず、絵画やその他の表現方法によっても制作する。自分の感覚を文章の断片にも残す。その広がりは料理にさえ及ぶ。

それは「表現する媒体もまた“素材”」だとしているからだ。

制作姿勢がシンプルであり、その発生源しか持たないゆえに、広がりを持つという結果になる。

それは、何かが爆発した時に、爆発した場は“点”だが、それによって産まれる衝撃波は球形に大きく広がるのと同じ性質だろう。

しかし、それはやり散らかしたものには全く感じられない。どれも仁平の個性が際立っている。

彼はこう説明する「発生源が一つだからです」と。

そしてこう付け加える。

「私は思想やスタイルを持ちません。それは、素材を限定する“檻”だからです」

しかし、それでは素材による違いでその都度分散してしまうのではないか?という問いに

「いえ“思想”や“スタイル”は、その時代時代の流行で移ろいます。それはその都度ふさわしい形を持ちますが、しかしそれが本質ではないわけです。例えば、蝶が幼虫からサナギ、そして蝶になるそれぞれに意味がありますが、そのどれかが蝶の全てを語っているわけではないように。その全体が蝶という存在なのです。思想で捉えられるのは素材の一部に過ぎません。思想というのは、暗闇で懐中電灯を照らして見える範囲に過ぎません。ということは、自分の思想であっても、それを発生源にしてしまうと、それは全体の部分に過ぎず、それを統合しようとしても分散するということです」

「しかし“素材”は人間がつくったものではありません。私という存在も、私がつくったものではありませんし、私の存在そのものには思想はありません。それはそれそのもので全てです。だから“素材”と“私”の関係性の間に“舞い降りるもの”は、人間がつくり出したものではなく“人間を超えた摂理そのもの”です。だから、それは常に根源的な摂理による現象です。だからそれは常に“一つの場所からやって来ます”私はそれを絶対的に信頼します」

それでは、制作者の個性は発揮出来ないのでは?

「いえ、それは違います。“素材を開花させる者は、開花させられる者”なのです。私は素材を開花させる。それは同時に、その素材によって私自身の個性が暴き出されている時なのです。そこでは、むき出しの素材の個性と、素材との関係によって引き出された、これもまたむき出しの私の個性があるのです。その両者の関係は、分離することは出来ません。それが“個性”でなく、何でしょうか?現実的に、思想云々を言う人でも、優れた作品を残した人たちは、そういう状況、そういう集約状態で制作していたと思います。これは、私だけの考えでなく、制作者が集中している時には同じ状態になると思いますよ。私は現実的な、当たり前の事実を説明しているだけなのです」

そして、彼自身、彼の制作したものも「素材」だと言う。「素材」でなければならない、と言う。

それはどういう意味?との問いに

「素材になるには“公共性”がなければならない。古今東西、人間のつくりだしたもので“素材”になったものだけが、思想や時間を超えることが出来るのです。“素材になる”ということは、それは人々に使われ、精神面でも有益であることです。ただの個人の“表現欲の垂れ流し”の結果に産まれたのではないもの。表現欲の垂れ流しのものは、簡単に時間の破壊力で淘汰されます。“人間がつくり出したもので、素材にまで到達したもの”それは制作者の個性がむき出しでいながら、公共的な素材として使われることと矛盾しないのです。自然物はそうなっていますよね?ちなみに、それはいわゆるアート分野のみのことではありません。科学技術や工業製品あらゆることにおいて同じことです。“とても有益なものの本質は極めて個性的”ではないでしょうか?極めて個性的でなおかつ利便性があるから、公共性を帯びそれは“素材化”したのです。それが、現代における“無銘性”だと私は解釈しています」

話はいわゆる民藝で使われる「無銘」にまで及ぶ。

あなたのそういう独特な思想?いや、思想ではないですね。“方向性”としておこうか、それは誰かからの影響?

「あらゆるものから影響を受けています。しかし、基本的には眼の前にあるものとただ関わることによって自然にそういうものが私に醸成されただけです。しかし、どちらかというと、アート云々よりも宗教的な方向性に近いようですね。私は何かしらの宗教に属していませんが。私が言っていることは、何一つ新しいことなんてありませんよ。私自身にある、そして恐らく誰にでもある当たり前の事実を説明しているだけなのだから」

そして続けて

「それと“美”です。これがとても大切だと思っています。“美”という無形の、素材と同じく人間には作り出せないものに人は導かれて、突き動かされて、新しい発想と、それを実現する技術の発想を得て、何かをつくり出すのだと思っています。“美”と“素材”は人間にはつくれない。ただ関わることしか出来ない。私はそう考えています。“美は人間が産み出すものではなくいつでもどこにでもある”のであって、それをどう顕現させるか、ということです」

「そして“美は最初からある”とも思っています。古典を観ると、人間と“美”や素材の関係性から“新しい何か”が産まれて来ているように思います。【美による最初の一撃】があって、人は動き出す。人は、最初に“美”に魅入られることから、何かが始まるのだと思います」

「繰り返しますが、“美”は人がつくり出せるものではない“まず最初に美があるのだ”そう思います。この“美”はキレイ、という意味ではありませんし、人為のものでは美術や音楽のみにあるのではありません。例えば素晴らしい科学技術や数学の公式、スポーツの劇的瞬間、そういうものにも“美”は顕現します。“美”はいろいろな場に、いろいろなところに顔を出します。ともあれ、まずは“美による一撃を受けること”。それが“起点”になり、例えるなら、発火点になり、人は新しい創作をするのです。“美”はその間の燃料でもあります」

「そして、人がそれを作り上げて、そこに“美”を定着することに成功すれば、それはずっと美しいのです。なぜなら“美は人間の理論や時間とは無関係だから”です。それはずっと美しく、人々に“美”を与え続けるでしょう。いわゆる芸術やいわゆる哲学は、その“美”に含まれていると私は考えているので、私はいわゆる芸術云々ということについて考えることはありません」

なるほど“美”ですか・・・美は、良く言われる創作家などがつくり出すもの、という考えではないんですね?

「私は人は“美”と関わることしか出来ないと考えています・・・美や素材(人間がつくったものではないもの)は、人間がつくったものでないゆえに、文化や時間を超えていつも新鮮に人々に訴えかけてくるのだと思います・・・」

「ちなみに、”美”が問題となるのは人為とその結果について、のみです。自然物には全て”美”が備わっていますから、問題になりません。この木の葉には美があるけども、違う種類の木の葉には美がない、という事はないでしょう?しかし人が、例えば粘土でつくった木の葉が、こちらのものには美があるけども、あちらには無い、という事が起こるのです」

「それと“品格”というものが問題になるのも、人為とその結果のみです。自然物にあるのは荘厳であって、品格ではありません。自然物は品格というものに収まらないのです」

そういう“美”に体する姿勢は、どこかからの影響?

「いいえ(笑)素材に体する考え方と同じく、自然にそういう姿勢になっただけですよ。だって、いろいろな美学の本を読んでも、哲学の本を読んでも何も回答なんてないじゃないですか。むしろ混乱を増やしているぐらいに私には思えます。私は、素材と対面し、それを観察するだけです。もちろん、技術的なことは参考資料を使いますよ。しかし、その素材をどう捉えるか、というような根本的なことは、他の誰かの考え方のレールに従うことは出来ませんでした。私はつくり手ですから、実際に実用的なもの以外は必要ないんです。むしろ、動きを鈍らせるようなものを増やさないで整理する方が多いですね。武器が煩雑では実戦で戦えないでしょう?」

なるほど、彼は実用的か、そうでないかという極めて日常的で当たり前な姿勢で物事を観ているわけなのか・・・と私は新鮮に思った。しかし、その当たり前なことへの向かい方が違うと、こうも人と違うのかと思った・・・多くのものは、本道を舗装する前に、脇道の舗装に精を出しているようなものなのかも知れないな、と彼のシンプルな姿勢の話を聞いていて思った・・・

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古今東西、あらゆる風土、文化、思想、宗教的なもの、日常的な風景、新しい素材やメディア。それに対面した時に湧き上がる仁平自身の内面の感情の動き。

それらが、彼の「燃料」なのであり、彼はただそれを形にする。

そこに「思想」も「スタイル」もないのである。

そして彼自身の個性は「対象との関係性から自然に、自動的に引き出される」。結果、彼は自分の個性について常に無自覚でいられる。

彼はそれを「私は自分の個性から自由です」と説明する。

彼の姿勢は、私たちの(少なくとも私個人の)今までの価値観で言えば「無個性、無思想」である。

そう、私たちは「その人が作り上げた思想やスタイル」を珍重し、崇めているから。

彼自身、彼の姿勢によっていろいろな批判や罵倒をされたそうだ。(今もそうらしい)

しかし、実際に私たちが眼にする、彼から出力されるものは、彼の言動も含めて“極めて個性的”だ。

今までの私たちの価値観では、「無思想、ノンスタイル」の仁平と、仁平自身の作品の、極めて個性的で斬新であり、多様でありながら全体の統一感を失わない、という事実との「乖離」を把握出来ない。(彼にとっては把握出来ないことが理解出来ないのであろうが)

なぜなら、一般的には人は思想や哲学を持ち、その範囲のなかで何かをつくり出すからだ。

そして、それがその人の個性として認識される。

しかし、彼はそれは個性ではない、と言う。

“それは過去の知識と経験の編集物に過ぎない”と言うのだ。

彼の言うことを今までの知識を脇に置いて丁寧に追って行くと、極めて整合性があり、彼の作品たちはそれを見事に証明している。彼の、幅広い制作のどれをとっても“彼自身”にしか観えないのだ。

彼の主張する事と、彼の作品には見事なまでに分離がない。

私たちの知っているものとは対極なのに、むしろ思想と制作の、より強固な一致を感じるのだ。(そして彼は“元々一つのものを分離させてはいけない”と言うのだ)

私たちは彼が言う通り「思想という檻」から抜け出し、新しい眼をもって彼を、そして自分を取り巻くものを、そして「素材」を観ることが必要なようだ。

彼の姿勢と作品はそれを教えてくれる。

(田中公平 筆)


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