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何にでもいわゆる芸術作品を絡めないで欲しい

先日、明治神宮に久しぶりにまいりましたら「明治神宮鎮座百年祭」という事で、神宮の敷地の通路の脇などに現代彫刻がそれなりの数、飾ってあり、本殿の門にまでそのようなものが飾ってありました。

中には有名作家のものもあったようですが、私は、イベントだからといって特にそのようなものを設置する必然は感じませんでした。

それなら、普段からきれいに管理されている神宮の森や通路はそのままで、雅楽を生で流していただいた方が、ずっとふさわしいと思いました。それなら、100年かけて壮大に育った木々や土や空に溶け込み、その場にいる人たちが、より明治神宮自体を心と体に感じられると思うのです。

実際、録音のようでしたが、売店のあたりで控えめにかけられていた雅楽は、とても心地よく感じました。

そして、鳥の声や木の葉のざわめきも素晴らしいものでした。

もちろん、何かのイベントにおいて、そのイベントにふさわしい彫刻であるなら、それが現代彫刻であろうと昔のものであろうと良いと思うのですが、しかし、全てのイベントに芸術作品が必要とは思えません。

「明治神宮鎮座百年祭」のあの場に「個人の表現の塊」が必要でしょうか?

(その作品には、その個人が考える明治神宮のイメージがあったのかも知れませんが)

個人的には人の祈りや、日々の生活、自然への感謝などが形になったもの以外の「表現物」は、あの場にはふさわしくないのでは?と思うのです。「作品」よりももっと人為が抽象化されたものでなければ、あの空間にはそぐわない。

本殿の門の前に、JA武蔵野が野菜で作った、大きな宝船がありましたが、もちろんそれは造形的に美しいものではないし、モノとしては稚拙ですらあり、いわゆる表現物では全くないわけです。しかし、私はそれには違和感を感じる事はなく、そういうものは、あの場にはふさわしいな、自然だな、と思いました。

それは個人の表現などではなく、ただ豊穣の願いを形にしたものだったからです。

例えば、明治神宮のあの場に、見事な古代ギリシャの石柱や彫刻などを設置したとしても、それはやはり合わないと思います。

その土地の自然や信仰や風習、そこに関わる人々が積み重ねた歴史、それに敬意を持った抽象的な何かでなければならないからです。

それは、いわゆる具象的な形を持たない抽象的作品という事ではなく、人為自体が抽象化されたようなものになっていないと合わない、という意味で、それは芸術作品で実現するのは難しいのです。

いわゆる芸術作品は、使い方を間違えると有害です。

いわゆる芸術作品は、万能ではありませんし、芸術作品として作られたものだから崇高という事はありません。それは人造物の一種に過ぎません。

場合によっては「そこにいわゆる芸術作品を置くべきではない」という判断も文化的な行為であると私は考えています。

そのような洞察や判断を出来る事が、高度な文化を持つ民族なのだと思います。


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東京で染色品(主に和装)と絵画の制作・販売を行っております。こちらでは、雑感を書き綴っております。【同じテーマや内容を違う言い方をして何度も書く】ことが多いです。このnoteはサイトの文章置き場に使っております。サイト→ https://foglia.jp