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センスの良い人は真の意味での保守主義者

という事だよなあ、と、私は個人的に思うのです。

一般的には、センスや創作の分野では、保守的であるというのは、悪い事であるかのように思われ勝ちですし、頭の固い、じじむさいものだと思われ勝ちですが・・・

どなたかが

真の保守主義というのは、古いしきたりを変えない事ではなく、新しいものを良く吟味してから取り入れるかどうかを見極める姿勢である

という意味の事を書いてらしたのをネット上で拝見しましたが、なるほど!と私は思いました。

さらに、いろいろと試してみて、自分の感覚や手に合うものかどうかを慎重に見極めてから、それを自分に合うように調整し、自分の中に完全に取り入れてしまう。または、やはり合わないとして外へ出す・・・

そういう面倒な事を常に行う姿勢です。

私は、そのような行いを「新しい物事の伝統化」と呼んでおります。

しかし、そのような「真に保守的な人」から受ける印象は、とてもモダンでセンスが良く、かつ落ち着いていて、自由で楽しそうな感じです。

どこを観ても、その人のスジが一本通っている。伝統だけでなく新しいものも大好きで、その知識も豊富だけども、それに振り回されていない。それがまた格好良い。

新しいもの、目立つものなら何にでも飛びついてそれに振り回されている「自称・新しい感性/開かれた感性の人」とは違うわけです。

不思議なもので、新しもの好きで見栄っぱりで、そればかりの人は、新しい感覚の持ち主に観えません。どんなに持ち物が素晴らしいものであっても、どこか成金的な感じがします。その人の核がありませんから、センスが悪いのです。

そういう人は、なにか良さげなもの、面白そうなものにただ反応しているだけなんですね。欲望のままに何でもかんでも手に入れてしまい、感覚的に散らかってしまっている、あるいは自由にやっているようで、いつも同じようなものばかりに手を出すので、その人はガラクタに囲まれている感じに観えるのです。

それがどんなに高価なものであっても、ブランドで有名なものであっても、低通する美意識と真の意味の自己対話=自分の精神による真剣な選別・・・が無いので、モノと本人の関係性が希薄で、モノ同士の関係性が希薄で、せっかく良いモノを手に入れても、その人の周りにはガラクタがあるように観えてしまうのです。

そういう意味において「真に保守的である事」は、精神や感性の部分において大切なんだなあ、と思います。

また、真に保守的であるというのは教養を必要とすると思います。私は教養のひとつの定義として「知識と感性を配線して感性を飛翔させる土台が教養」と思っています。また「純粋に感覚的で有り続けるために必要なのが知性である」とも思っています。

それはその人の美意識、センスとなって表れるなあ、と思います。


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