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調味料を良質なものにすると簡単に美味しいものが作れる傾向があります

いろいろな人に指摘されておりますが、私も「調味料を良質なものにする」「浄水器を通した水を使う」と、簡単な調理で、手をかけすぎて味わいがぼやけた料理屋さんの料理よりもずっと臨場感のある、かつ栄養が流れ落ちていない、旬の美味しい料理を食べられると考えます。

例えば、旬の野菜を茹でて、適切なアク抜きをし、素晴らしい品質の塩、醤油、たまり醤油、味噌、香辛料、酢、油などをちょっと添えるだけで充分に美味しい。むしろそれ以上いらない。削りがつをなどを添えると何か邪魔な感じすらしてしまう・・・旬の、味の乗った野菜の旨みだけで充分な感じ・・・

お店として出す料理なら、そんな茹でただけの料理ではお金が取れないという事になってしまうかも知れませんが、個人的に食べるのなら、それで充分です。

もちろん、ここで切り方や茹で方、その他調理加工にプロの適切さがあれば最上に美味しい。料理屋さんでそんな気の利いた料理を出してくれる所なら、私は通います。

旬の食材は舌や口や鼻の粘膜に染み込むような独自の旨さがあります。また、旬の食材が出る頃にその食材を体が必要とするのか、体全体に栄養が染み入るような感覚を覚えます。

なので、調理は無駄な事をしないように・・・適切でなければならないと思います。

前時代の高級和食の「いわゆる職業料理」は、品良く美味しいものもありますが、味わいや栄養的にはカスカスなことが多かったように思います。なんというか、キレイに切る事、キレイな色に調理する事(キレイな色に仕上げるため、いろいろな事をする)透明感のある味わいする事に非常に技術を使い、手間をかけるゆえに見栄えは大変良く、かつ、繊細でお品が良い味わいではあるけども、生命感や臨場感のない、平板な味・・感覚を上滑りして行くよう味わい・・・煮物であれば、具材の味は殆ど抜かれていて、出汁のかつを節の風味ばかり強い味わいだったり・・・

現代の和食はそういうものは減ったように思いますが、時折そのような料理に出くわし、ある意味懐かしさを感じたりします。

昔の日本料理の一例・・・例えば、里芋を調理するのに

米のとぎ汁や糠で良く茹でる→水に良く晒す→糠くささを抜くためにさらに茹でる→もう一度晒す→出汁味を染み込ませる

という感じです。

葉物野菜などでも「アク抜きと称して食材の味を全部抜いてしまってから、美味しく調味した出汁を吸わせる」感じ。アクを抜くのは分かるのですが、あまりカスカスにしても意味が無いような気がします。栄養も無くなりますし。

昔の野菜はアクが強かったので、その調理法はその時代においては、ある程度正解でもあったと思いますが、現代の野菜でその調理法だと、味が一本調子で、平板になってしまいます。

しかし、食べる方・・お客さんでも、そのような前時代的な料理で価値観をつくってしまった人は、それを「キチンと丁寧な仕事をした日本料理」と思ってしまっていて喜ぶ人もおりますので、一概にそれを否定も出来ませんが・・・(手間は実際にかかってはいますが・・・)

元々、日本の食味は「無味の美味」を珍重する傾向はあるにはありますが、そういうものは、フグの味わいや、じゅんさいの味わい、湧き水の美味しさを愛でるような価値観です。それらは「〜のごとし味わい」であって、抜け殻の味の事を言っていません。

それなのに「とにかく味がないのが粋」みたいな感じで、日本酒は水みたいなものが良い、料理の味わいも薄い透明な味わいがでなければならない、というのは行き過ぎだと思います。

日本では1980年代後半から1990年代半ばまで、洋食も和食も酒類も、極端にそういう方向に走ったと記憶しておりますが(もちろん全てではないけども)流石にそれもやりすぎ、という事で揺り戻しが来て落ち着きましが・・・

食材を産み出している人や、料理人の料理を食い尽くした人などは、あまり加工した「料理人の料理」ではなく「旬の良い素材に適切な調理をした料理」・・・シンプルで美味い、体と心に沁みる料理を好む傾向がありますね。

そのような「素材の臨場感を極力活かして食べたい」という意図にも、良い調味料は答えてくれます。


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