民藝的な美を産み出すのは大変難しい
民藝的審美性、その美というのは
職人が、そしてその地域が、美や創作など意識する事なく、日々の生業として当たり前にやっている事から自然発生的に産まれる美
・・・なわけで、そういう意味では、民藝運動の人々が主張する通り「天才が作り出す美ではなく、凡人が作り出す美というものがある」わけですが、しかしそれはむしろ、ものづくりとしては、むづかしいです。かなり。
「意図すると、それを得られない問題」
が出てくるからです。
「それを知らなかったから自然に出来ていた」事が「意識した途端に、出来なくなる」のは良くある事です。しかも、出来なくなった原因は分かりません。それは非常に抽象的な問題で、技術的な事が原因ではないのです。
柳宗悦の周りにいた作家さんたちは、昔の民藝品と同じようなものを現代に再現するのを目指したというよりは、事実上「民藝的美意識+個人の創作性」を持つ作品をつくっていました。
本来的に言えばそれは民藝品ではありませんし、売られている価格も人気作家の価格でしたし「おいおい民藝の定義はどうした?」と批判する事は可能ですが、私は「民藝とは民藝的審美性を持った工芸品とその周辺の価値観の事である」としているので特に批判するつもりはありません。現代では事実上そうなっている、という事で、私はそういう把握をしています。
実際「民藝」というカテゴリーは、細かい定義など関係ないぐらいに日本の美術工芸のスタンダードのひとつとなり、そのカテゴリー内で素晴らしいものが産まれ、親しまれておりますし・・・
それに、作家の彼らは民藝云々関係なく時代を経ても魅力的な作品を多数残したわけですから、民藝ルールに従ったものでなくても良し、です。
いきなり話が少しズレましたが、
何にしても「意図すると得られない問題」は、創作に限らず、宗教系の精神状態の問題でも良くある事です。
瞑想し「あの状態に」入ろうとすると逆に入れない、しかし知らない間に入っている事があり「あれ?オレ、今入ってた?」と自覚した瞬間に普通の世界に戻されてしまい「もう一度アレを!」と思っても、もう入れない、過去に経験したあの素晴らしい経験をもう一度、と追えば追うほど遠ざかる・・・そういうタイプの物です。
職人と、その産地の制作環境全てが「知らずその境地に入っていた」から自然に「そういうモノ」が出来上がっていたのでしょう。(作家や職人個人だけでは産地モノ独特の大きな創作性を持つ良品は産まれません)
その成果物が「民藝的審美性」を持ったモノになったわけですが、それを産み出した当人たちは当然「そんな事は知らなかった」のです。だからこそ、知らずにその境地に入れる幸運があったとも言えますが・・・
それが美を宿したものであるとする「鑑賞方法と価値観」は、民藝という概念が作り出される前は存在していなかったのですから、それ以前の人々が知らないのは当然です。
民藝の美なる価値観があるのを知らず作っていた職人も、そのうち自分が手掛けたものへの評価を知る事になるわけですが「まだそれを理解せず分からないまま“今まで通り”やっている」のならその美を宿したモノがその後しばらくの間、生産される可能性は高いです。
しかし「今まで通り続けているだけ」では進化も深化も無く創作的に先細ってしまい、新鮮味が無くなります。それはそれで、民藝的審美性を失います。産地ものの「いつもの定番」といえど、基本は変えずに、市場に合わせた変化は必要ですので・・・「その時代時代で活きているモノでなければ民藝美は宿らない」のです。昔の民藝品を再現しよう、あるいは保存しようと意図したものでは民藝的審美性は得られないのです。
「産地で職人たちが普通に商品として作って売っているところに、自然に良質な民藝品が出来上がる条件が揃い、宿った美」が民藝美なわけです。
そして、自ら産み出しているモノに宿るその美を自覚してしまった瞬間から「無心の創作という境地に意図的に行かなければならなくなる」わけです。
しかし、そうすると瞑想の時のように「無心かつ伸び伸びとした創作の世界から弾き出されてしまう」のです。
アダムとイブが知恵の実を食べたせいで楽園から出されてしまったように。
今まではただ生活のためにモノを作っているだけで良かったところから、意図して民藝美を持つモノを産み出さなければならなくなったのです。そういう「意図と作為の問題」は人が何かを作り出す際についてまわる事で、人はそこから逃れられません。厄介なものです。
こういったケースもあります。
自分の手で民藝的審美性を持つものを作りつつ、しかしその美を分かっていない職人が「なんだか知らねえけど、評判良くて売れるからどんどん作んべ」と、普段よりも大きく増産体制に入ると、やはり民藝的審美性を失います。そのモノの形式は民藝的なのですが、実質は民藝的審美性が失われたものになってしまいます。似て非なる物を大量生産してしまうわけです。
しかも、それを作った職人自身は「昔のよりもツヤツヤにキレイに作ったから売れるに違いない!」なんて思っていたりするのです。それは流行りに乗って売れるかも知れませんが、そこに民藝美はありません。
このようなケースは、1990年代ぐらいの、日本でのアジア・アフリカの工芸品ブームの時にも起こりました。
過去の有名な「民藝作家」のものは美術品扱いで高価ですし、古い民藝品でコンディションの良いものは同じく高価で手が出ないし数も少ない。しかし、アジア・アフリカに目を向けるとそこは良質な民藝品の宝庫なのを民藝品や工芸品マニアの人々は発見したのです。
もちろん、そういうものを扱うお店はそれ以前からありましたし、民藝運動時の民藝作家さんたちも、それらを蒐集していたようですが、それはまだ一部の人々が注目していたぐらいだったと記憶しております。
1990年代当時は円高でしたから、仕入れも安く済みましたし、経済格差もあり、日本で同じものを制作したら二桁上がってしまうというレベルの、良い素材を使い、手をかけた緻密な工芸品がお手頃価格で買えました。
その当時は、アジアやアフリカの小さな村の人々が独自の風習に生き、その生活のなかで使われていた道具や祭器、そしてその小さい経済のなかで実用品として作り出されていたもの、あるいは自家消費用につくっていたものに「正に民藝的審美性を持ったもの」があったのです。「民藝品の良品が産まれる条件」が揃っていたわけですね。
現地の小さい村の人々は貧しく現金が欲しいわけですから、かなり貴重なものや、祭器などでも売ってくれたようです。日本人はそういうものを沢山買いました。(日本だけでなく、ヨーロッパからの買付も多かったようです)
さらに古いものだけでなく、日本で人気のあるタイプの民藝品の発注が日本から現地に大量に入ります。
そうなると素晴らしい民藝品を制作している事に無自覚な村人たちは「お、村に現金が入ってくるのはありがたい。普段作っているこんなもんで良いなら沢山つくって日本に売るべー」と大量に生産します。そうなると上に書いたように「似て非なるもの」が出来上がって来ます。
それを受け取った方が相手に文句を言っても「同じ素材で、同じように作っている。しかも、こちらの方がキレイに出来ていて、品質が高いじゃないか」と言い返されてしまうのです。
昔のものの方が良かったのに・・・と言っても、それは現地の作り手にもブローカーにも通じないのです。
そうなると、もう元には戻れません。
(そういう問題が起こってから、丁寧に手法や価値観を見直し、新しい現地の民藝品を作り上げた例もありますが)
「伸びやかな無心の美」は、理論や思想から自由な場にあったからこそ産まれたわけで、それはある意味「無形」だったわけですが、その価値観や美意識を発見した時点からそれは「思想という形」を持ってしまいます。しかし形を持たなければ、その価値観や美意識を他人へ伝達出来ませんし、その思想自体を進化・深化させる事も出来ません。
過去に作られた古いものの中から何かしらの価値観や美意識に当てはまるものを見出す「見立てという創作」だけをするならそれでも良いのですが、そういう美を持つモノを新しく産み出そうとすると、いろいろと問題が起こるのです。
「形を持ってしまったものは分離を起こす」という性質があります。
「人の手や感覚から時差無く刻一刻と無意識に湧き出ていた自由な美」を発見した瞬間に「ある美の基準があり、それを目指す」という風に変わってしまうのです。そうなると、ひとつにまとまっていたものが「行為と観察と判断」に分離するのです。
その分離が起こった時点で、昔の民藝品にあるような種類の美は失われます。
意図がなければ創作は出来ない。しかし意図があると無意識に産まれ出る美は作り出せないわけです。
そういう事ですから、昔の民藝品の良品と同じものは、人造物に宿る美の性質からいってもう出来ないと私は考えております。
・・・私は以下のように考えています。
人造物の美の出現の道筋は一回性のものである。ゆえに、昔の良品が産まれた環境や手法を再現してもその美は再現出来ない。人造物の美は常に新しいものに宿るのである
昔の民藝品の良品は、産地の生活と制作環境と素材と職人技術が、意図とは関係無く美を産み出す摂理に適っていたから産まれたのである。しかし同じ美を目指してそれを再現しても同じ美は表れない
だから新しく美を目指すしか無いのです。
では何かつくる際の意図や作為はどう扱えば良いのかというと
このモノには作為があるから臭い、という批判は間違っている。なぜなら人は何かを起こす際には必ず意図を持つからである。ものづくりではそれは作為という形になり、制作者は素材や制作環境と関わる事になる。人は神ではないから意図や作為が無ければ何かを産み出す事が出来ない。作為が臭うのは“作為が昇華していないから”であって、作為が完全に機能すれば作為は消え、素直で美しいモノだけが残るのである
という風に個人的に思っております。
何にしても、民藝の美を新しく産み出すのは本当にむづかしいと思います。
なので、民藝だけでなく創作全体に通用する姿勢でもってそれに当たるしか無いと私は思っております。
* * * * * * * * * *
*民藝関係の記事*
モノの肉体的実用性が失われても審美性が残る=審美性は実用的で寿命が長く強い
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?