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粋(いき)に法則は無いと思う

前にも何度か「粋」について書いておりますが・・・

たまたま「粋」についての意見をネット上で拝見して「へー。未だに粋って【いきの構造】という本がバイブルなんだなー」とあらためて新鮮に感じたので、また書きたくなってしまいました。

何か本で読んで、また、昔の粋人と言われた人の考えやセンス・・や、法則の通りに生きるのは私は無粋のような気がするのですが、どうなんでしょうね。

それでは粋を本で学び(あるいはどこかの誰かの価値観を知って)、その法則の通りにし、皆でその共通の価値観の確認をしあって楽しむのが粋、ということになってしまいます。それは内向きの閉じた態度ですし自由ではありませんから、粋ではないような気がします。

私は

「粋」であることは「その人の生き方の問題」であって「粋な人がやる事が粋」なのだと考えます。

「粋」とは「その人らしさ」の健全な発露です。

だから「粋」であることは法則化出来ません。

人それぞれ違うからです。

個人的には、ファッションやその他の芸事のセンスがある事=粋と限定しておりません。

それじゃ、あまりに「粋」が小さいじゃないですか。そんなのつまらない。それは人の資質や才能の一面に過ぎません。

例えば、ファッションはダサいし、芸事に特に長けていない人が、その人にしか出来ない、人々の思いつかなかったことをやってのけて社会の人々の胸のつかえが取れてスッキリしたら、それは粋な行動ですよね。

もちろん、粋な人同士で共通するところはありますが、しかしそれは法則ではありません。時代が同じなら同じ傾向を持つのは自然ですし。逆に変に他人と違うことをやろうとすることは不自然で無粋です。

まとめますと

「粋は法則化は出来ない。その人の生き方が自然に出ている様子が粋である。だから粋は、基本的にはどんな人でも、それぞれの方法で得られるものである」

キレイな粋もあれば、薄汚れた粋もあり、大きな粋もあり、小さな粋もある。(その他いろいろ)

いつもふるまいが粋な人がいれば、何か特定の事に関して、たまに人が思いつかないような粋な事をしてのける人がいたり・・・

となります。

粋の発露の仕方が人それぞれ違うわけです。

だから人を「粋かそうでないか」ということで差別的に分けることも出来ません。そのように分けられるなら、それは法則化しているということですから、それは私の考える粋ではありません。

そもそも「本当に粋に生きている人」はそんな無粋なことをしません。

法則から自由で、かつ逸脱すること無く楽しく生きている人。

それは粋という価値観の外にいる人です。


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