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伝統文化系こそ文脈の解説が必要だと思う

いわゆる現代美術では「文脈」が重視されますよね。

作品にまつわる文脈云々がとても大切だと。しかし、それが時に過剰ではないか?と思ったりもします。あまり文脈云々が重要視され過ぎると、作品自体はそれほど意味を持たなくなりますし。意図すればいくらでも「文脈の構築をし続けることが出来る」わけですから。

それは極端な例ですが、あまり文脈文脈言い過ぎて、本体よりも文脈の方がメインになっているのは興ざめしてしまう感じです。

・・・しかし、例えば・・・

酒や料理について、この味わいは分からないと感想を持つ人に、その酒や料理にまつわる文脈を説明し、さらに詳細に、なぜその酒とその料理の組み合わせがこの場面で出てくるのか、など具体的に説明し、あらためてその酒や料理を味わってもらうと、

「なるほど!分かった、だからこういう味わいなのか。そういうことなら、これは美味しい。より味わいが深くなった。展開も出てくる。そういうことだったのか」

と理解されることがあります。

そして一度そのような理解が起これば、その文脈にまつわる事は、自分で発見しながら楽しめるようになる事が多いようです。

それは「その酒と料理の組み合わせの文脈を把握・理解したことによって、その独自の魅力に感覚のピントを合わせることが出来た」ということです。

文化を提供する側は「受け取る側の感覚をより広げ深めるための環境」を上記のような形でキチンと用意する必要があると私は思います。

特に、現状ではあまり一般的でないものを理解してもらいたい場合・・・伝統文化系は、正にそういう立場ですね。

そのような提供側からの「文脈の解説」は、思想がどうとか、学術的に云々ではなく「それをより理解し楽しんでいただくための文脈の解説」ですから、思想的にこねくり回したものではなくシンプルで直接的なもので、受け取る人々の立場に立ったものです。もちろん、突っ込んだ高度な質問にも答えられるようにしておく必要もあります。

何かしらのモノやサービスを提供する側にいる人たちは、そのような環境づくりを常に意識しなければならないと思います。

例えばワインの世界は、ワイン自体の価値観の構築だけでなく、ワイン周辺の道具に至るまで、実に周到に用意されていますし、ワインに関わる方々も情熱を持ってワインの楽しさや価値の伝達に努力されているように観えます。

中国茶などもそうですね。

超高級なものから廉価なものまで幅広く、深く探求しても尽きることがなく、かつ、日常にサクッと楽しむだけでも良い。それぞれの欲しい形で楽しめるように出来ています。

ワインや中国茶単体のことだけでなく、それを中心として拡張性のある食文化を生活に取り入れ楽しめるシステムを構築し、提供出来るようにしてあるわけです。

しかし、日本の伝統文化に関することは、そのような構築があまり出来ていないように感じます。(分野によりますが)

現代日本の生活では日本の伝統文化のアレコレは遠いものになっているわけですから、その文脈の丁寧な解説が必要なのに、不思議と「分かるヤツだけ分かれば良いんだ」「理屈じゃねえんだ」といった感じの態度で・・・さらに、日常使いで楽しむ人へ「あんな安物はニセモノだ恥ずかしい」なんてクサしたりもします。

ご自分が高度にそういうことをご存知の方はそういう心情を持ってしまう事も理解出来ますが、それだと同好の士だけの閉じた世界になってしまいます。

日本の伝統系の世界は、もっと知られなければ、もっと広げなければと言いながら実際にはそのような「理解のための言葉や行動」を嫌う傾向がまだまだ強い気がします。まるで言葉にすると本質から遠ざかるかのような態度の人も沢山います。

また、伝統系のものはお稽古ごととして、上の立場の人から従順に受け身で習うもので、後進たちが新しい価値観を作るのは伝統を壊すことで良く無いこととされているように観える・・・気もします。

(そのような閉じた態度だからこそ、小さい業界になってもある程度のレベルを維持出来るという特性はありますが、より広げより深めることが出来ない状態でもあります)

「権威づけのための煩雑化」「至らないところを言葉でごまかす」「言い訳をする」等の理由ではなく「より深く広く楽しむためのガイドとしての言葉」なら良いと思うのですが、伝統という冠がつくと、どうも勘とか経験とか、一子相伝の秘伝とかそういうことばかりが正しいとされ、具体的なその文化の全体像の解説や、その文脈への解説は「忌むべきもの」とすらされている感じです。

そんな感じで、伝統文化の成り立ちの「正しい解説」は拒否される傾向にあります。日本の伝統文化は日本の伝統の本流であるからして、知らないヤツが知っている選ばれし人民である我らに頭を下げ、学びに来るべきである、という感じです。

しかし不思議と、まるでおとぎ話のような伝説的な話や、権威の大先生の雅な生活の内容や、権威の先生と愛弟子の美しき苦労話などの「直接その文化の本質と関係無いところは熱心に語られるし、聴く方もそれを望む」のです。

それはサイドストーリーとしては、あって良いものだと思いますが本質的なところを伝達したいのなら、そちらがメインになってしまうのは問題だと私は思います。しかしそのような本質ではない部分こそが伝統文化系では信用されます。

人々は、伝統系だからこそ、ワイドショー的なネタを信じる傾向があります。

人々が欲しいのは「伝統ではなく伝説」なんですね。それぐらい、現代の日本人と日本の伝統は遠いのです。

「なんだか面倒くさそうな“伝統”云々を理解するのよりも、“伝説”という物語なら、楽しく聞けるし理解もしやすい」

ということですね。

しかし提供側がそこに甘んじてしまうのは危険です。

そのような状態にあるものは、その文化の成り立ちに対する理論構築が脆弱で、沢山の人が、同基準でその文化を把握し理解することがむづかしくなります。個人個人で基準が変わりすぎてしまい、安定しないからです。

そういう環境では、多くの人がその文化を広く深く理解し、楽しむことが出来なくなります。

ようするに、多くの人々が文化を同じレベルで高度に共有することがむづかしくなってしまうからです。

だから、勘とか理論構築の無い伝説や、経験の長さなどが、信用になってしまうわけです。

そのような状況だと、文化そのものが進化発展しません。

それでは悪い意味で、昔のまま、停滞してしまうのです。それは伝統ではありません。

その停滞は、大河がせき止められ、水が入りもしないし出もしないで腐って行き、水量も減り、そこに魚が住めなくなり、本来その河に生息するべき生き物が生息出なくなる様子と似ています。

それは伝統と違うわけですが、それこそが伝統としている場合があるように観えます。その悪い意味で現代視点で観れば普通でない、現代と違うところを「だから伝統っぽいと感じてしまう」のです。場合によっては、奇異であるほど伝統的に観えます。(もちろん全てがそうではありません)

しかしそれは、本当にただ変なものに過ぎないのです。それは「伝統文化とは似て非なるもの」ものなのです。だから、普通の現代生活者たちはそれを観て興味を持てません。

私は普段「極力、知識のフィルターを通さずにモノを観たい」と申しておりますが何かしらの文化を提供する側に立っている場合は、不慣れな人への道案内をし、さらに、こちらのドアからお入りください、と招き入れる事が必要だと思っています。ただし、そのドアの中に入り、そこで体験するものをどのように感じるかはその人の自由ということです。

そのような文脈の解説は鑑賞・観察・感受の邪魔になりません。むしろ、そのようなものは基礎知識として必要なもので、その基礎を楽しく把握・理解していただくということ・・・

伝説や、お稽古ごとや、権威づけのためではない、今、現実的に伝統文化を美しく機能させるための「正しい理解を広げるための活動は、伝統文化系に必要だと私は思っております。

それにはまず、正しい伝統文化への理解が始まりなのですが、そこから始めなければならないので、簡単ではありません。


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