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食は三代とか言いますが

「食は三代」という言葉がありますね。

その意味するところは諸説ありますが、だいたい「何代も良い環境で育たないと本当の味は分からない」という意味であることは共通しているように思います。

この手のものは、日本だけではなく、古今東西どこにでもあるようですが・・・

何にしても「伝統の継承=世襲ではない」のは当然の話です。

もちろん世襲そのものを否定しているのではありません。単にそこに産まれ落ちてその仕事を継いだ、ということは当たり前にあることですし、世襲だからの優位点は確かにあるわけですし、何代も同じ仕事を続けていれば、そのなかに素晴らしい仕事を残す人が一般よりも多く出る可能性が高くなるということはあります。

しかしだからといって「世襲だから良いものが分かる・美しいものが分かる」というのは別の話だと私は思うのです。

私は「食は三代」だとか「文化的素養を身につけるには三代かかる」などというのは「全くの愚論」だと断定しています。

例えば「名家に産まれ、幼い頃から良質なものに触れ、素晴らしい人々と接し、いろいろな体験をし、古い風習にも子供の頃から親しんでいる人」は存在します。

世襲でずっと豊かな人は、独特の焦らないのんびりした感じや、世襲財産を持つ人独自の経済合理性や、使用人を上手く使うマネージメント勘、セレブな人脈を持っているのは確かです。

しかし、だからといってその人が美しい人になり(容姿だけでなく内容も)美しいものが分かり、美しいものを産み出せるようになるというわけではありません。そんな都合の良いことが起こるわけがありません。

時には「そういう豊かな境遇だったからこそ」とんでもない、人として外れた人やおかしな人も出るわけです。実例は沢山あって、小説や映画の題材になっていますよね。

どちらかといえばレジェンドになるような人は、世襲の人でも初代の人でも、激しく異端者なことが多い。

ようするに「その個人がそうだった」ということであって、少年ジャンプの主人公のように「実は一子相伝の伝統を引き継ぐ唯一の血族であり、そのDNAが今目覚めた!」という都合の良いオチではないわけです。

(しかし、少年誌ですらヒーローは血統によって決まるオチが多いのですから、人間はなんだかんだ言って由緒正しき血統に憧れるし、好きなのでしょうね)

現実問題として、食や文化に強烈な興味を持ち、自腹で巨額の費用をかけ、自分に叩き込んだ人の方が、食や文化のことを良く理解し自分化していて、他者への伝達の熱量も大きく、そういう人の仕事は素晴らしいです。

いくら良い環境があっても、本人の才能と強烈な興味で突き進み、知識や経験を体系化しそこに電流を通し、公共化する努力がなければ物事は分かるようにはならないし、ましてつくり出すことなんて出来ないのは「当たり前の話」です。

私もいわゆる創作系の業界に独立してから四半世紀いますので、いろいろ体験しておりますが「名家だから素晴らしい人格と作品」という実例は特に多くはないと思いました。別に一般人と何も変わりはありません。

ただし、政治的な力を持つ権威によって「食は三代」だとか「文化的素養を身につけるには三代かかる」というような価値観が成立するのは事実です。

「そういうことにしておくと、利益になる仕組み」があるなら、自分に利益を与えてくれる仕組みに人は集まり、ある種の価値観として成立します。

それと、経済的には優位に立つ人が、自分の感性や知性でモノを観ることに自信が無かったり、自己判断を放棄している場合は、そういう「悪しき権威」は便利です。ただそれを習い、倣い、従えば社会人としては安心出来るわけですから。

しかし、そのような行為は実質的・本質的に文化的なものではありません。

こういう「食は三代だとか、文化的素養は三代」の「いかにもそれらしいけども、まるで事実と違うこと」を、昔の有名な文化人たちがしたり顔で言うので、この時代のこの手の人たちの文化論はアテに出来ないと私は思うのです。だから私はそのあたりの人々の言説は全く参考にしておりません。

例えば「あそこの館長さんは、〇〇屋の△代目で、幼少の頃からお茶を叩き込まれた教養人だから文化や美食を分かっている」

なんて言われていても

「おいおい、その習ったってお茶、昔のもの凄い茶道具が産まれていた時代のお茶と全然違うだろ」

と、私は思うのですが「いかにもそれっぽい物語」には上っ面の説得力がありますから、社会への浸透力は高いものです。

「世襲文化人(?)」は、どこかの誰かが決めた価値観やしきたりに詳しかったり、トレースするのに長けていて、博物的な意味では有用かも知れませんが、その人が美しいものを理解しているか、現代に生きる人にとって何か役立つもの、新しいものを産み出す爆発的な創作力を持っているか?自分の美を語れるか?となると、世襲は関係ないのです。(モノを産み出せなくても、新しい価値観を産み出せればそれは創作ですが)

必要なのは、その個人の美へのエネルギーと、どれだけ美に献身したか、だと私は思っています。

もし美にくだらない理由をつけて、他人との差別のために使うなら、その人は何も分かってないのです。

【美は絶対的に、残酷なまでに平等】だからです。

美は人間の雑事と無関係だから美なのです。出生とは何の関わりもありません。

「突然現れた美」を受け入れることが出来る感受性と知性があることが「教養があること」だと私は思っています。

「教養とは、そのように生きることそのもの」

です。

知識やたしなみや出生ではありません。

だから尊いし、人間はその生き方によって品格が出るのだと思います。

過去の人間が決めた価値観の奴隷であることが教養だと思い込んでいる人たちにはそれは出来ません。

美は常に唐突に、完全体として現れます。

美には原因も理由もありません。

だから逆に、産まれが良かろうと悪かろうと、教養ある人には品格があり、美が分かる人なわけです。美は残酷なまでに平等なので。

文化的素養が三代しないと身につかない、分からないというなら、例えば何代も世襲されている茶盌をつくる家は現在の当主が一番優れていなければおかしい。

が、その家の初代から当代までの作品を並べた展示会の図録を観てみると、初代がダントツに良く、三代目がちょっとあざとく上手い、あとはもう江戸中期には「彫刻的あざとさ」が目立つものになっている。

明治期から西欧の芸術概念が入ってきて変わったのではなく、江戸中期にはもう「茶盌が変な個人的表現物」に変わっているのです。

それは、お茶の美意識としてはどうなのかな?と思います。茶盌は茶盌という範囲の宇宙を表現するところに抽象的な無限が宿り、美が訪れるのだと思うのですが、茶盌が彫刻のようなものになっている。私はそういうものでお茶をいただきたくないです。

だから「食は三代・文化的素養三代」なんて権威とお金を持っている人たちが自分の権威を維持するための妄言に過ぎないと私は考えるのです。

「もっともらしい嘘を言って」権威に居続けたい人たちが「終わった文化の中心」にいるのは「いかにも世俗的に良くある平凡なこと」と思います。そこに美があるわけがありません。

その場はもうそのままです。良くなることはありません。

歴史の長い国は、素晴らしい伝統を有しますが、同時にその副産物である澱が溜まって出来た泥沼が存在する性質があります。

泥沼は泥沼で、澱を溜めておき外に出ないようにする役割があるので、それを破壊する必要はありませんが、泥沼の澱は本質ではありません。

【伝統といわれるものの多くは、実は文化の澱の溜まった泥沼】

だから、いわゆる伝統と社会が分離するのではないでしょうか?

本質的な伝統はそこには無いと思います。

地上にはもっと楽しく美しいものが沢山出現して更新されているのです。

そちらを推進して行く方がずっと有意義です。

しかし、若い世代で、新しい視点で伝統を詳細に冷静に観察し、古い政治力学的な文化の価値観ではない、新しく美しい価値観を見出すケースも増えています。

それは素晴らしい流れだと思います。

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