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【東京が雨の日にだけ投稿される小説】~序~ 白雨は隠す

「いいや、今日初めて入った。ずっと気になっていた店だから、いつか入ってみたいと思っていたんだ」

狭く、天井の低い店内。お互いの声も小さくなる。何のうしろめたさもないのに。気が付くと、店主に聞こえないように話をしている。

L字型のカウンターの中からは、包丁で何かを切っている音がする。

「そんなに長いこと気になっていたなら、もっと早く入ればよかったじゃないですか」
「いや、それがなかなかタイミングが合わなくてね」

ただ店に入る。それだけのことにタイミングも何もないだろうに。

「実は問題が一つあった。この店がいつ開いているのかが、つい先日までわからなかったんだよ」

・・・何を言っているのかよくわからない。

「いまどきHPでもなんでも、検索すれば開店時間や定休日なんて調べられますよ。ぐるなびとか食べログとか」
「いやいや、無いんだそういうのは。一切ない。検索したって何も出ないんだよ。というか・・・調べようがない。店名が無いんだから」
「え?表に出てませんでした?あれ?」
「出ていない。ドアの上のランプと店内の照明が光っていただけ」

店に入る時を思い出してみる。
入り口のランプは確かに明るかったように思う。色はオレンジだったか?店名は・・・確かに見た覚えがない。若干がたつきがある引き戸の扉と、少し力を込めた指先にわずかな痛みがあったことは覚えているけれど。

「じゃあ、なんで今日この店が開いているってわかったんです?ひょっとして昼間に一回来たとか?」

ふふん、と鼻を鳴らして彼は照明をチラリと見た。

「今日が雨だからだよ」
「・・・は?」


「さっき言ったろう?この店がいつ開いているのかが  “ つい先日までわからなかった ”  って」
「ああ、言いましたね」
「そう、実はこの間、はたと気が付いたんだよ」

●●●●●●●●

「以前、仕事帰りにこの店に明かりがついているのを見かけたんだ。あっと思ったよ。それまで開いているのを見たことがなかったから。
入る前に携帯で調べようとしたんだけれど、店にそもそも名前もないし、住所で検索しても何も出ない。どんな店か分からないと、不安だろう?一人だったら特に」

いい齢の男なんだから、店くらい一人でも入ればいいのに、と思いながら聞いていた。

「入ろうかどうしようかと少しのあいだ思案したんだけれど、ただその時は時間も遅くてひどく疲れていたし、また今度にしよう、と思い直して家に帰ったんだ。

で、次の日店に行くと、外も中も真っ暗で営業していなかった。その日だけじゃなくてしばらくのあいだ開かなかったんだ。1週間くらい。

それから2回ほど、明かりがついているのを見かけた。ただその時も少し悩んだ挙句に入らなかったんだ。どうしてその時入らなかったのかは忘れてしまったけれど。
それでね、思い返してみるといつも僕は」

そういって彼は、足元に置いた折り畳み傘を革靴の側面で小突いた。

「この傘越しに店の様子を観察していたんだ。いつもこの傘の柄と、滴る水滴の向こうにこの店を見ていた。いつも左手にカバンを、右手に傘を持つものだから、携帯で店のことを調べようとする度にいつも面倒だなと思った覚えがあった。だから気が付いたんだ。

この店を見ていて、晴れた日は一度もない。ひょっとしてこの店は雨の日にしか開かないんじゃないかって」

そんなわけないだろう、と思いつつも口は挟まなかった。一人で飲み屋に入れない男といえども、先輩は先輩・・・。

「だから携帯で調べたり、問い合わせ先を探したりする必要もなかった。朝のニュースで天気予報を見ればいいんだ。他の人にとっては気温やら湿度やらを見るんだろうけど、僕にとっては開店スケジュールの確認なんだよ」


よくわらんな、と思いながら窓の外を見た。入り口にあるライトの光が、雨の一部をオレンジ色に変えている。
そうか、ライトはあんな色だったなと思う。
外を歩いている人は誰もいない。雨脚は少し強くなったようで、景色を少し白っぽくしていた。今日は遅くまで降るんだろうか。天気予報を見てこなかった。
というかこの先輩の話を切り上げられるのは何時ごろになるだろう・・・。


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外は白雨(はくう)。
彼らがいる場所が地面からぐんぐんと遠ざかっていくように、
雨音はどんどん小さくなっていた。
誰も気が付いていないけれど。

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