見出し画像

心の琴線に触れるセラピーにこそ、ケアが大切になってくる

「居るのはつらいよ」を読んだ。

学術書だしなぁと思いつつ読んだものの、セラピーとケアの関係性が理解できて、セラピーを受けた時どうして後味が悪いまま私はセラピストに責任転嫁しようとしていたのか、がわかったように思う。
数多くカウンセリングを受けてきたし、コーチングも何度か受けてきた。
その中でも笑顔で終われる回と、セラピストに"今回私との時間が滅茶苦茶になったことについて責任を感じて自分を責めていて欲しい"と思いながら数週間泣き崩れるような時とがある。
その数週間ひきずるような回は大抵痛いところにフォーカスを当てたような回で、ある程度のストレス負荷量を超えて頑張るとか解決に向けての行動とかへの取り組み意欲を自暴自棄になる気持ちが圧倒的に上回る。
最早ただ辛いだけのセッションだった。

受けたあと、冷静になって考えるくらいまでクールダウンされると、まぁあの時はこれができたらよかったというだけのことだったんだな、と思えてきたりもするけれど、それは元気な時だけで、弱って苦しんでいる時にそこまで行きつくことはできない。
セラピーで扱うような物事の編みなおしはしんどいことで、そこにケアが十分に投入されないと上手く機能しなくなってしまう。
そういう重たさがあるからこそ、セラピーは上手く機能すれば人生を変えてくれる要素になりうるのだろう。
しんどさが強いセラピーは、見たくないものとしっかりと向き合うことで心の琴線にしゃんと触れている。

私は大学で心理学を勉強していたし、この本の中に出てくる精神分析の北山修先生の授業を受けたこともある。
大学生活を通して、北山先生の精神分析の授業が一番面白かった。
鮮やかにクライアントの人生の編みなおしを、メタファーを使って抽象度を上げて、また具体的な現実に戻って位置づけを読み替える過程を、教科書を用いながら学ぶ時間はとても魅力的だった。
そこに描かれるのはセラピーの様子で、ケアの印象は深く残っていたりはしないけれど、あれだけセラピーが上手く機能するということは、そこにケアの要素が巧妙に組み込まれていたんだと思う。

なんとなく私も、セラピーが上位でケアは下位のイメージを持っていた。
カウンセリングのシーンは専門職ばりばりの部分で、ケアは誰でもできる肉体労働的側面の強いものといったイメージがあって、その二つが近しいところにあるように見える理由からよくわかっていなかった。
だけどそこには切り分けきれないものがたくさんあって、比重や目的の違いなんだなと腑に落ちることができた。

心の琴線に触れるセラピーの中でケアの部分もしっかりできたら、それは本当に価値がある時間になるのだと思う。
私がいくつか経験したきつい時間も、もう少しケアの比重が高かったらきちんと原動力にできたかもしれなかった。
誰かの深いところに入り込む時こそ、その不安定さを不安定さのままにしないでその時間を終わらせるように、意識的にケアの要素の取り込み方を考えたい。

お読みいただきありがとうございます! サポートいただきました分はnoteを続けるエネルギーに変換していきます。