匿名インターネットに救われてた

SNSでの誹謗中傷の問題が本格化している今、インターネットの悪い側面がとりただされている。
匿名だからこそ人を傷つけることに対する抵抗感や想像力が欠如するのは本当に悲しい話で、やり場のないストレスのはけ口に誰かを使っているようにも見える。
その誰かが傷つくことを、悪いことだと思えずに。
その言葉が誰かを追い詰めることになるほどのものだと、わからずに。
顔も名前も見えないからこそ、悪いことへの抵抗感が薄れてしまう。

だけど、顔も名前も見えないからこそ抵抗感が薄れることは、時として救いになることもある。
言いづらいことが言えてしまう状態であるということは、攻撃的に使うと誰かを傷つけることにはなるものの、一方でやさしい人たちに囲まれた場所では、弱っていながら周りの人に助けを求められない時に頼りかかれる場所となりうる。

女子高生だった頃、私はとても死にたかった。
死にたいのか消えたいのかよくわからないまま、人生何が楽しいのかわからないと思いながら、息苦しい毎日をなんとかやり過ごしていた。
悩みを話せるような友達もいなく家族に頼るという選択肢もなかった私が唯一助けを求められた先が、インターネットだった。

心の内を話せるほど仲のいい友達がいるなら、友達に話したらいい。
悩みを共有できるほど家族と信頼関係が築けているなら、家族に話したらいい。
身近に頼れる誰かがいるならそれが一番いいのはもちろんだけど、そうじゃない状況におかれている人だってたくさんいる。
きっとその次にくる選択肢は、正論でいえば学校のカウンセリングルームや電話相談窓口になるんだろうけれど、それはどうしてもハードルが高い面もある。
(当時どっちも試したけれど、カウンセリングを何も言わずに思いを読み取ってくれる場だと勘違いしていた当時の私には却って逆効果だった)

そういう時、身近で抵抗感が低く顔も名前も見えないインターネットは、ただひとつ当時救ってくれた場所だった。
ハンドルネームしかわからないものの、同じように苦しみながらなんとか毎日生きている人や、誰かの役に立つことでしか自分を認められないことに苦しんでいる人、また別の部分で苦しみながらも支え合える人たちと、傷のなめ合いだったかもしれないけれど、そうやってそれがあったおかげでなんとかあの時期を生き抜くことができた。

危険なことがなかったとは言えなくて、嫌な思いをしたこともあったけれど、それを差し引いてもあの頃の私は、匿名インターネットに救われていた。

誰かを深く傷つけてしまう匿名性の危うさはよくない。
それは絶対に多少強引にでもなくしていかなくてはいけないものだし、これ以上同じような事件を引き起こしてはならない。
ルールづくりとかだけではなくて、個人のリテラシーやストレス状態の面からも根本的に対策が必要だと思う。
だけど匿名性のいい部分は、難しい部分はやっぱりあるだろうけれど、これからも残し続けていけたら嬉しい。
匿名であるからこそいいことも存在しているということを、心の片隅に残しておいてもらえたらなと思っている。

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