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うまくできないことと、どう付き合うか

仲の良い友人と4人で会った。
久しぶりの女子会に、何年もつきあいのある友人たち。
その状況でなお、私は自分に話がふられることが苦手で緊張してしまう。
簡単に話せるであろう自分の近況や次の休みにどこに行くみたいなことですら、理由もないのにやたらドキドキしてうまく話せなくなってしまう。

所属している吹奏楽団で数十名規模の中、その日練習に参加していた中では同じパートを吹く人が自分だけの箇所が少しだけあった。
何の変哲もない間違える方が理解できないような場所で、簡単な4拍子すら数えられなくなってひたすらばくばくしてしまう。
4秒を4秒と理解しているのに4が数えられない、ということだ。
明らかに物凄く簡単なその音階さえ、自分の心拍数のせいで考えつかないような間違いを犯す。

異常だった。
今でも、異常だ。
人前で何かがうまくできない理由として自信のなさや場数の少なさがよく挙げられるし、そういう理由の羅列はどれだけ責めてくるんだと思いながら、私自身それしか方法が思いつかなかった。
でもどうやら、それだけではうまくいかない何かがきっとある。

間違える要素が考えつかないような場所で、自信の有無が介在するのかもわからない場所で、同じシチュエーションを何度も繰り返してなお、私は4人以上人がいるシーンに関して幼少期から大して変化していない。
ただひたすら緊張にノックアウトされて思いもよらないできなさを発揮するし、それがわかっているからこそできる限り話しの矛先を向けられたくない。
それが例え休暇の旅先の話であっても、それはそうなってしまうのだ。

こういうことを紐解いていくと多分、過去の出来事による認知バイアスの形成シーンを書き換えていくことが必要だと思うけれど、ただ別にそう大して思うものはない。
できなかった経験しかないし、できると思い込んだところでできない。
大人として・能力がある社会人になるために、それは必須なことなのに。
じゃあどうやって私は、それを手に入れるために努力したらいいのだろう。

間違いや論点のズレを、きっと過度に気にしている。
目の前の相手の質問の意図と隣の相手の回答は合致していないよなとか、今この話をしていたのにブレたなとか、そういうことはやたら思うくせに思うからこそ言う必要のないことだらけになっていく。
頑張って何かを言うことは、自分もブレたことを言っているなという認識になる。
賢くないのに賢くなりたい。
結局できない自分を認められないのだろうか。
だったらブレても何か言える人でいた方が圧倒的にいいと言い聞かせて、緊張の呪いを少しでも緩和していくしかない。
できないからやらないではなくて、できるようにするために頑張るべきだけどそこの抵抗感がいつまで経っても全くやわらがない。

これを克服しないままきちんと大人になれたと自分で言えるには、どういうところを目指したらいいんだろう。
3人以内で完結する場で、きちんと話して数を踏んだら変わるだろうか。

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