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コンプレックスの塊だけれども、弱みを糧にして情報発信をするようになるまで(自己紹介)

こんにちは。
ライフライターの唯内由貴です。
@yukitadauchi

いまでこそこのように文章を書くことでお金をもらえるようになり、家族と生活してもなんとか生きていけるような状態にもなったかれども、ネットの世界ではまだまだ無名な私。
 
これまでの経験は無駄なものかというとそんなことはなく、厳しい時には逃げたい経験ばかりをしてきたからこそ、それを糧に社会に立ち向かうようになれた経験を発信して生きたいと思って記事を書いている。

私のことを知らない人が9割だと思うので、実際にこれまでの自分の経験を自己紹介という形で書いていきたい。

平成2年東京都にて生まれ即神奈川に住居を移す。
生まれつき体は弱く、生まれて間も無く入院をした。
無事に回復を果たし成長していった。

今考えると、自分は生まれた時から逆境の中で生きてきたのだと思う。

野球に打ち込む小学生時代

1998年地元神奈川にホームを構える横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)の優勝を期に野球を始める。小学校のクラブチームに入団し、毎週白球を追いかける日々を過ごす。
こんな毎回ギリギリレギュラーとして試合には出ていたけれども、いつ外されてもわからない環境に楽しくも、ビクビクしながらプレーをしていた。
もしかしたらこの頃から人の顔色を気にするようになったのかもしれない。それでも全国大会へ出場するチームでレギュラーになれたことは、当時の私にとって誇れる唯一の自己承認だった。

怪我や人間関係に悩む中学時代

中学校へ入学すると、地元を離れ強豪チームへ入団し野球をすることになった。学校では特に部活へ入らず、帰宅後に練習をし、週末のチーム練習へいくなど、野球漬けの毎日だった。
そんな中、中学一年生の時に両足にオスグットを抱えてしまう。
いわゆる成長期の疾患だが、原因は正しいトレーニング方法の知識がない指導者によって教えられた昔ながらのトレーニング方法だった。
結局リハビリをおこなうものの、パフォーマンス向上には至らず、14歳に引退することを決めた。だましだましやっていたら高校からは声がかかったかもしれない。退団の意思を伝えた時に監督から出た言葉は、「リハビリをしながら続ければ必ず良い成果が出る時が来るかもしれない。」だった。しかし、自分の意思でやめた。怪我とは別に人間関係にも嫌な部分があったからだ。
人間関係や怪我を隠してまで高校の推薦が欲しいかというとそうではなかった。野球は大好きで、アラサーになった現在でもよく見ている。娘にベイスターズの応援歌を教え込むぐらいの野球好きだ。でも当時は、やめたくて辞めたくて仕方なかった。それだけ人間関係に悩み、怪我を回復させて他の人生を選択することに自分で決断をしたのだ。周囲の意見に反対して自分の意見を曲げなかったのはこの決断が初めてだった。

辞めたくても辞められないという悩みを抱えている方が多いこの日本で、この決断を経験できたのは数少ない成功体験のひとつだ。

スポーツトレーナーを目指したい!具体的な目標ができた高校時代。

怪我から挫折と人生最初の成功体験から、私はスポーツトレーナーという職種で仕事をすることに目標を定めた。
普通でいることがコンプレックスだった。何か他の人ができない仕事をすることができる自分に承認欲求を感じたのだ。
高校では、ひたすら勉強を続けた。生物と数学はかなり熱を入れて学んだ。体の仕組みや筋肉骨、そして数式のパズルを説いている感覚が楽しくて仕方がなかった。

楽しい学びは成果を出す。年間の成績優秀者として表彰された。さらに、体の発達成熟に伴い運動能力が高くなり、体育でも良い評価を受けるようになった。
そこでまたぶつかるのが、人間関係だ。大人たちからは良い評価をされる一方、同年代からは嫉妬など受け入れられなかった。靴がなくなったり、画鋲が入っていたり、持ち物がなくなることなどは日常茶飯事だった。

この時に目立つことへの怖さと、自分より能力の劣る人間を否定し、自身を最下層にして判断するようになり、見られることへのコンプレックスを感じるようになった。
自分が一番下の環境に身を置くことで、平和にそして成長することができるのだと信じていた。

それからは同年代の人とは一切関係を持たなくなった。スポーツトレーナーになるという目標を叶えたかったし、それを実際に叶えている人と一緒の環境に身を置くことで、達成への近道だと感じたからだ。

今考えてみると、自分はこの頃まで逃げ道ばかりを用意していたように感じる。なぜ立ち向かって相手の背中を地面に叩きつけるまで戦わなかったのだろうかと思う時もある。しかし、その選択をしたから今の自分がいる。課題もあるけど、それを含めて自分なのだと思う。

退路を断つ!でも断ち切れなかった大学時代

同世代の中で圧倒的な違いを見せたい。高校3年間で培ってきた学び方への自信を踏まえて18歳でスポーツトレーナーとして独立した。
独立というとかっこよく見えるが、フリーターに毛の生えたようなものだ。
はじめは食えたものではなかった。

2ヶ月での売り上げは10万円。とても学費と生活費を払える計算ではなかった。
ただここで私は逃げなかった。初めて自分が掲げた具体的な目標であるスポーツトレーナーになれたのだから。ここでの本気度はこれまでの人生の中で一番だった。とにかく活字が嫌いで、読書感想文も目次を見ただけで適当に書いて提出していた私が、1月に4冊以上の本を読むようになった。
先人たちの失敗談から学び、それを実行することで、自分の失敗体験、成功体験を増やしていった。
20歳でサラリーマンの平均年収を超えた。でも在学中1000万に届くことはなかった。

もちろん卒業後も独立して仕事をする気で3年を過ごしていた。でもその選択はしなかった。
また逃げたのだ。「会社経営を学びたい」という最もらしい理由をつけて。
10年先の生活が見えないことを楽しめない自分がいて、不安が日が経つにつれておおきくなり、最終的には勝つことができなかったのだ。

一年で辞めた社会人生活強制的に後ろの扉を閉めたこれまでとこれから

新卒で入社した会社は年収ランキング上位のリーディングカンパニーだった。
学生時代経験のない職務内容だったが、これまでに培ってきた要領の良さと交渉力、主張力が背中をおし、トップの成績を出す。
しかし、これまでと同じように人間関係に苦しめられた。世の中には人の成功を妬み、それを潰そうとするためにエネルギーをかける人間が一定数いる。その人間が権力を握っているときはもう最悪だ。
たちまち、新卒で社内に仲間がいない自分は周囲を固められ、自分の意見が出しにくいように追い込まれた。正直この過程に到るまでの多くのいじめの対象になってきたこともあり、これに対してはなんら問題はなかった。耐性がつき、人間関係のトラブル程度では逃げないくらいのメンタルにはなっていたが、社会はそれだけではなかった。

知らないところで自分の評価が下げられ、いつの間にか本当の自分がどの自分かわからないような環境にされてしまった。気がついたら会社にいられなくなっていた(今となっては潰れる前に脱出できたのは感謝と思えるほど幸運だった)。

現在は子供達の運動指導をしながら、これまでの経験を元にコンテンツを出したり、取材を通して記事を書く仕事をいただいています。

国語の偏差値38だった私が、文章を書く仕事で対価をいただいているのだから、人間逃げ道がなくなったらなんとでもなるんだなと思う。

いまは、年上の妻と幼い娘を笑顔にするために仕事を楽しく自分でもやっている。
今後の目標は、好きな人を守り、仕事を一緒にしながら、固定給+趣味収入で生計を立てること。
運動指導とカラダのトラブル、健康、就職、教育などのカテゴリーで活動をしていきます。

これまでコンプレックスばかりでいきてきましたが、今はその経験が記事に活かせるようになっています。
マイナスをプラスへシフトする。そのお手伝いもできるように情報を発信し続けます。

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