感想『我と汝・対話』

『我と汝・対話』の「我と汝」のみ読了

岩波書店
1979年第1刷発行、2017年第48刷発行
マルティン・ブーバー著
植田重雄訳

#読書の秋2022

この本の感想を述べる前に、この本を読んだ経緯について説明する。

経緯

漫画を描いて生きているこの僕が、学生だった頃の話。
当時はまだ趣味の範囲内で描いており、友人に見せるだけだった。

僕が通う大学には本来あるゼミとは別に、有志が自主的に活動するゼミ、通称「自主ゼミ」があった。
僕も自主ゼミの一員だった。
自主ゼミでは、自分のセクシュアリティについて赤裸々に話したり、タブー視されやすい問題についても積極的に議論したり、実のある活動をしていた。

そこの教授に自分の漫画を見せたところ、「これを描くのはつらかっただろう」と言葉をいただいた。

男同士の叶わない恋の話だ。
ただ一言、好きだということもできず、孤独に自分を傷つけていくだけの話。
この話は「男と男」「1人の人間と1人の人間」の話だった。

教授はその言葉のあとに、『我と汝・対話』を勧めた。
僕はすぐに購入して読んだが、当時の自分には理解できなかった。

あれから数年が経つ。
あのときの僕と今の僕はどう違うのだろうか。
今の僕にはどう感じるだろうか。
教授がこの本を勧めた理由はなんだったのか。

教授とゼミ生たちのことを思い出し、再び本を手に取ってみた。

感想

再読したからといって、深い理解を得ることはなかった。分からなかった。
難読。
このかたい文章には歯が立たない。

それでも、当時と違うのは、理解することに努めたこと。
解釈が間違っているかもしれないが、何も分からないと言って放り投げることはできなかった。


ブーバーが言うには、
〈われ-なんじ〉〈われ-それ〉の2種類の関係性があるのだとか。
われとは、なんじとは、それとは何か。

人間は自分以外の「他」と接して生きている。

〈われ-それ〉

〈それ〉は、〈それ〉としか言いようがないものだと思う。
主観をいれないで、頭の中で考えないで、実際あるものに即して考えること。即物的。
ただ、そこにあるもの、そこにいる人、のように。
自分が物として操作できるものであっても、人間であっても、〈それ〉は〈それ〉なのだろう。
大切なものと認識していないのだ。

〈われ-なんじ〉
〈なんじ〉がいるから〈われ〉が存在し、〈われ〉がいるから〈なんじ〉もまた存在するのだと思う。
真正面に立って考え、真剣に話し合う。
相互にとって大切な存在。
〈われ-それ〉とは異なる関係性だ。

〈われ-それ〉と〈われ-なんじ〉の〈われ〉はそれぞれ別のものだという。
即物的にしか捉えられない〈それ〉との〈われ〉と、〈なんじ〉と関係を育んでいる〈われ〉が同じものではないと思う。

どういうことか、僕なりに考えてみる。

道を歩く。人とすれ違う。

すれ違った人と僕がお互いに認識せず何の関係もなければ、〈われ-それ〉の関係性なのだと思う。
何の主観も交えず、頭で考えない〈それ〉と〈われ〉。
それだけのこと。そういう関係性。

でも、もしすれ違ったのが愛おしく思う人だったら?
ぱあっと世界が鮮やかに彩るような、そんな世界に変わるかもしれない。
もしくは愛おしさと同じくらいの苦しさの底に落ち込むかもしれない。

なんとなく、僕の漫画の中で繰り広げられるキャラたちの関係性についても、僕と僕の漫画の関係性についても、あてはめてみたりもした。

「我と汝」には孤独についても書かれていた。が、その辺りではもうすでに僕の頭はパンクしていた。

教授は人間と人間の関係性について、こういう考え方があるよと教えてくださった。
認識。感情。孤独。〈われ-なんじ〉。

まだ知らない、まだ気づいていない関係性について考えて
漫画に活かしていきたいと思った。

2022.11 にと

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