鶴岡八幡宮 その1 八幡の神とその起源
鶴岡八幡宮とは
神奈川県内に住んでいなくとも、「鶴岡八幡宮」の名を知らない人はいないでしょう。
毎年、お正月の初詣では、全国参拝者数ベスト10に入る、とても有名な神社です。
そして、三が日以外の平日に訪れても、観光客や修学旅行生たちでいつも賑わっている、鎌倉で屈指の観光名所でもあります。
そもそも八幡神とはどんな神さま?
「八幡」の神を祀る神社は全国に14,805社あるといわれています。
この八幡神とは、
の3神のことで、鶴岡八幡宮でも御祭神はやはりこの3柱。
全国の八幡社の総本社となるのは、宇佐市にある宇佐神宮で、もともとは農耕の神、海の神、鍛冶の神であったとの説もありますが、平安時代後期以降は源氏の氏神、弓矢と戦勝の神としてのイメージが強いかもしれません。
戦勝の神としての八幡神
たとえば、源平合戦の中、舟の上で揺れる扇の的の真ん中を見事射抜いた那須与一は、弓を引く前に
とまず真っ先に八幡の神の名をあげて祈りを捧げています(『平家物語』)。
義経は歌舞伎はもちろんのこと、現代でもドラマの題材となってよく放映されていますが、その場合は台詞をはしょって「八幡大菩薩」にのみ祈ることが多いようですね。
2022年のNHK大河ドラマは、鎌倉を舞台とした『鎌倉殿の13人』。2022年1月24日現在、まだ鶴岡八幡宮も八幡大菩薩も登場していませんが、源氏の氏神さまということもあり、今後はおそらくドラマの中で描かれることでしょう。
2005年のNHKの大河ドラマは滝沢秀明さんが主演の『義経』でした。なかなかの高視聴率だったので、ご覧になった方も多いかもしれません。
那須与一役は当時「タッキー&翼」でコンビを組んでいた、今井翼さん。彼が演じた那須与一も「八幡大菩薩」にのみ祈りを捧げていました。
「ん? 菩薩? 菩薩って仏教のものなのでは? 鶴岡八幡宮って神社だよね?」
と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、昔は神仏習合という考え方があり、日本の神々は仏が仮に神の姿をとってあらわれるとされていたのです。
鶴岡八幡宮も現在は神社ですが、明治元年の神仏分離令までは「鶴岡八幡宮寺」として、仁王門や大塔といった仏教系の施設を持ち、仏教系の儀礼も行っていました。
鶴岡八幡宮の起源
さて、そんな鶴岡八幡宮の起源は、平安時代に遡ります。
源頼朝の五代前の先祖である源頼義が、前九年の役で奥州(東北地方)の豪族・安倍氏を倒した後、鎌倉に戻りました。奥州へ出陣する前、頼義は、源氏の氏神である八幡神の坐す石清水八幡宮に戦勝祈願したのですが、帰還後、石清水八幡宮の神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀ったのが始まりです。
前九年の役は歴史の教科書でも触れられることの少ない戦かもしれません。高橋克彦氏の小説『炎立つ』は、前九年の役を題材として扱っています。『炎立つ』も大河ドラマ化されたことで、広く知られるようになったかもしれませんね。
石清水八幡宮とは
ちなみに京都にある石清水八幡宮も、平安時代からとても有名で参拝者の多い神社です。
『枕草子』にも
として、賀茂社と石清水の臨時の祭について書かれています。
また、『徒然草』に描かれている逸話も有名なので、耳にしたことがあるかもしれません。
肝心の本社を拝まなかったことに最後まで気付かなかった、という笑い話です。
鶴岡八幡宮を鎌倉の中核に据えた源頼朝
そんな石清水八幡宮の神を、現在の場所に遷し、本格的に祀ったのは源頼朝でした。
鎌倉幕府を開くより先、治承4年(1180年)に鎌倉に入るやいなや、由比ヶ浜辺から山の麓に遷し、鎌倉の中核としたのです。
建久2年(1191年)、小町大路付近で発生した火災により、治承4年(1180年)に建立した社殿は燃えてしまいましたが、その後あらためて石清水八幡宮の神を勧請し、本宮(上宮)を建立しました。現在、初詣などで多くの人が参拝するのが石段の上に位置するこの本宮、最初に頼朝が建立したのが現在の若宮(下宮)です。
残念ながらこの本宮は頼朝が建立した当時の建物ではありませんが、若宮とともに国の重要文化財に指定されています。
文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍徳川家斉によって造営された、代表的な江戸建築、朱塗りの流権現造りがとても美しい社殿です。
頼朝によって造られた鶴岡八幡宮は、それ以来、流鏑馬神事が連綿と行われ、また、源氏の氏神、戦の神として武家たちの精神的支柱となるとともに、鎌倉の町の中心となりました。
鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ
現在、鎌倉駅東口を出ると、正面にバスターミナル、左手には鎌倉一の賑わいを見せる小町通りの入り口が見えます。
小町通りに入らず、駅前の広場をまっすぐ抜けると、ぶつかるのが若宮大路。この通りが、平安京の朱雀大路にあたる鎌倉のメインストリートであり、また鶴岡八幡宮の参道でもあります。
若宮大路に出ると、右手は海、左手には二ノ鳥居。
この二ノ鳥居から鶴岡八幡宮正面に立つ三ノ鳥居まで、道の中央に連なるのが、段葛(だんかずら)と呼ばれるもので、頼朝が妻・政子の安産を祈願して造らせたものです。この時、政子は二代将軍・頼家を懐妊していました。
段葛は、参道の中央に堤を築き、葛石を積み上げて周囲より一段高くしたもので、「段葛」という名前の由来もここからきています。ただし、鎌倉時代には置石、作道、七度小路、千度小路、千度段などの名前で呼ばれていたそうです。
「七度」「千度」といった呼称は、この参道を通れば、七度、いや千度、お参りしたのと同じご利益がある、と考えられていたことからつけられたのだとか。
現在は春になると、とても美しい桜のトンネルとなるこの段葛ですが、これは大正になって植えられたもので、昔は松並木でした。広重の版画にも、松並木が連なる段葛が描かれています。
また、この段葛、かつては由比ヶ浜近くまで続いていました。
【施設情報】
鶴岡八幡宮
住所:〒248-0005 鎌倉市雪ノ下2-1-31
休:なし
時間:10月~3月 6時~21時
4月~9月 5時~21時
駐車場:普通車40台(1時間600円)
URL:http://www.hachimangu.or.jp/
【編集後記】
鶴岡八幡宮と言えば、源平池の蓮。7月下旬~8月中旬頃がもっとも美しく花開く時期です。
三ノ鳥居をくぐってすぐ目の前にある、太鼓橋の左右に広がるのが源平池。東の池(源氏池)には島が三つ、西の池(平家池)には島が四つあり、それぞれ島の数が源氏の繁栄(三=産)と平家の滅亡(四=死)を表しているともいわれています。
源氏池には源氏の白旗にちなんで白い蓮、平家池には平氏の赤旗にちなんで紅の蓮が植えられたといわれていますが、現在は紅白の蓮がそれぞれの池に咲きます。
養和2年(1182年)、元は弦巻田(つるまきだ)と呼ばれていた水田を、源氏の繁栄を願って池にあらためたものだそうです。
そんな昔に思いを馳せながら、蓮の花を眺めてみるのも一興かもしれませんね。
※この記事は、2014年に、ポータルサイト『駅探』の『駅前プログ』掲載用コンテンツとして作成した記事の加筆修正版となります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?