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「死ぬまで生きる日記」を読んだ話。

今回の感想本は今年の初頭に読んだ本、

土門蘭さんの
「死ぬまで生きる日記」です。

「死ぬまで生きる」というタイトルが秀逸ですよねえ…   未来的でもあり、現在的でもある。

この本を読んだときの背景を色々思い出したこともあり、感想以外に少々追記をしました。
その部分は後半に置きます。

まずは、読んだときに書きとめた感想そのままを記します。

『「楽しい」や「嬉しい」という感情は味わえるのに、
どうして「死にたい」と思うんだろう?
カウンセラーとの対話を通して、
ままならない自己を見つめた記録。』
-帯より-


作者の方と似た、自分も同じような希死念慮(とも何とも言い難い、でも他に言い様が見つけられない) に近いようなものが
それはそれは長いあいだ居座っていて
その感覚が一生消えることはないんだろうなということももうなんとなく分かってもいて

「そういう如何ともしがたいもの」に対する、作中の対話の記録が参考になる部分もあった。

対話を重ねながらも、
ままならないまま発作が起こる自分とひたすらに向き合って
そしてままならないまま、
ひとつの終わり・区切りを迎えて本作は閉じる。

そのままならないまま、安易な解決はしないことにも少しほっとする。
物語じゃないんだから、明確な答えは見えないまま生きていく方がずっと「ほんとう」に近い。

無気力なときに読んだので余計に良かったなと思う。
読み始めたときはまだそこまで無ではなかったけど、いろいろあって無気力に突入して、
「いま本とか読める状態じゃないわよ」などと思いながらなんとなく続きから2、3行読み始めたら読了までノンストップだったので(なんとなくそうなる気はしてた)、まず動いてみるのがいいんだよね。分かってはいるけどそれが難しいんだよなあ。
なんにもする気力が湧かないときに、この本を読めて良かったと思う。

あとやっぱり本はすごいんだな。
不安感が付き纏って吐き気や気分の悪さが止まらないときとかあるんだけど、そういうとき色々検索したり調べたりしてしまうけど、当たり前だけど楽になんてならなくて。
そういうときにこの本を読み終えて、「本読んだらほんの少しだけその不安はどっか行く気がするぞ?」と気づけたのは大きいな…



ここまでが読んだときの感想全文。
いまこの本を読んでみたら、感じ方もやっぱり違うんだろうか…と、この感想を読み返してみて思いました。
うん。この本はこのタイミングで読むものだったんだろうな。
然るべきときに、然るべきものを。そうなるようにできている。

本との出会いは

縁とタイミング


私がいつも感じていることです。

こちらの本とたまたま出会ったのは図書館にて。
そのときの私は、心身共に本を楽しめるような状態になく。(というより何もかも楽しめない状態だった)
この本はタイトルと帯の内容が気になって借りました。

なかば無意識に「読めずとも本に触れてはいたい」と思っていたのか、書店や図書館にはよく足を運んでいました。
「買う本」を選んで判断するのも気力がいるから、ひとまず眺める。気になって気が向いたら購入。
図書館で本を借り、読めそうなら読んで、難しければまたの機会に。
という感じで、なんとなく自分のエネルギーを測っていた部分があるような気がします。

つくづく私にとって「本や本のある場所」というのは、しんどいときも楽しいときも、どんなときでも変わらず大切なものなんだなあ。
とあらためて思います。

今の私は、ある本を読んだことをきっかけに
『本は私に、活力と楽しむ心をくれるもの』と心から思えていますが、この先はまたどのように変わって行くかはわかりません。
結局のところ「その如何ともしがたいもの」は、自分の中から消滅するというよりは
「薄めることが出来ている静かな時期」と
「どこまでも濃くなって内側から荒らす時期」があるだけなのだと知っています。

それでも「その如何ともしがたいもの」とお付き合いしながらも
寄り添ってくれる本と出会ったり、
生きる活力をくれるエンタメ書と出会えたり、
そういうことを繰り返しながら
これからもまた読んだ本と共に
生活も生き方も変容していくのでしょう。



この「死ぬまで生きる日記」を読んだときの
苦しんでいた私には思えなかったこと
大事だったはずなのに忘れていたこと


私はいま
本が読めて 幸せです。


ここまで読んでくださりありがとうございました!

それでは。

「死ぬまで生きる日記」を読んだ話。

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