「好き」という聖域
分かち合いたい「好き」と、
誰にも触れられたくない「好き」がある。
自分以外の人に
それがどのくらいの強さで存在しているのか、
そもそも存在しているものなのか、
どちらのほうが多いのか、
何回か人に聞いて訊いてみたことがあるけれど、
大人になった今でもよくわからないままだ。
人と人がはじめて顔を合わせるとき、
「好きなこと」を軸に話をすることはめずらしくない。
学校の自己紹介タイムだって、
大体の場合「好きなこと」が項目に含まれている。
あの時間が昔から、けっこう怖い。
「好き」は、聖域だ。
人の一番柔らかい場所を、
ずうっと支えてくれている。
その聖域にしか生息していない人格があって、
積みあげてきた思い出があって、
仄暗い闇があって、育んできた心がある。
「自分」と「好きな人・もの」だけで、
大事に大事に、守ってきた拠りどころ。
当たり前に、
あなたの「好き」は、あなただけのもので、
私の「好き」は、私だけのものだ。
「その聖域に何があるのか教えてよ」なんて、
初対面の相手に尋ねるのはとても気が引ける。
土足で踏み入れるような真似をして、嫌な気持ちにさせてしまったら申し訳ないと思うから、基本的には自分から口にしない。
「分かち合いたい好き」がほとんどなら、
あるいは、分かち合いたい人たちだけが集まっている場であるなら、こちらも安心してノックできる。
せめて日本人における「分かち合いたい」「触れられたくない」の平均パーセンテージだけでもわかっていれば、距離を掴みやすいのだけど。
私の場合、の話をすると
分かち合いたい「好き」のほうが、圧倒的に多い。
誰にも触れない場所に生きているのは
Mr.Childrenと、数冊の本。
年を重ねるにつれて、増えたり減ったりするけれど、Mr.Childrenだけは不動だ。
好きということを隠すつもりはないのだけど
彼らと、彼らの音楽の何が好きなのか、とか
これまでの人生で何を与えてくれたのか、とか
あの曲を聴いてどう思ったのか、とか
自分の体の中にある彼らとのすべての瞬間を、
私はずっと、できれば死ぬまで
そのままの形で残しておきたいと思っている。
振動も、感覚も、感情も、景色も、
触れた瞬間の世界のことは、ぜんぶ。
言葉にできる範囲だけ切り取ったり、それが誰かの体の中で誰かの記憶とトレースされたり、言葉にしようと力んで形状が変わってしまうことを、ものすごく恐れている。
だから、伝えることができない。
たとえ触れて欲しいと思っても、
形状を変えずに伝える、その術がない。
「好き」について考えるとき、
言葉にすることは、決していいことばかりじゃないんだと、改めて思う。
「愛とはなにか」「美しいとはなにか」
そんなことを私は、わざわざ言葉にしたくない。
ただ感じる、思う、その瞬間がぜんぶで、
一番満たされていて、その瞬間に完結している尊さを、体の中に残しておきたい。
言葉に当てはめて、それが答えだと決めた瞬間、
もうそれ以前の世界には戻れない。
形状を変えた世界に、どんどん塗り変わってしまう。そして忘れてしまう。
言葉にすることで増えていく喜びや幸福も計り知れないけれど、ときに愚かで、恐ろしいことでもある。
分かち合いたい「好き」も
触れられたくない「好き」も
ずっと自分だけの尺度で、
これからも守っていきたいね。
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