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ここで負けるわけにはいかない

久しぶりのnoteになってしまった。

前回のnoteでは面接を受けた時のことを残していたのだけど、オーナーから無事に採用通知をもらうこととなった。今ではカレッジを卒業し、毎日フルタイムで働いている。

フリーライターとして、引き続き原稿も書いている。現地メディアで書くこともあれば、日本の原稿を書くこともしばしば。

カレッジ内には日本人もアジアの友達もたくさんいたけれど、新しい仕事が始まって、今の職場環境では日本語を話すことが全くない。

オーナー含めスタッフは全員ネイティブで、知っている日本語と言えば「ありがとう」と「かわいい」程度だ。カナダに来てから半年以上経って、耳もある程度鍛えられたとはいえ、カレッジと職場、日常生活では使う単語も聞く単語も大きく異なる。


友達との会話と、上司との会話をイメージしてみてほしい。

友達とは「こないだデートした人がこんな感じでLINE送ってきて、これってどう思う?」「え、だよね?そう思うよね!?マジでめっちゃいい人だったんだけどちょっと『ん?』って感じちゃってさ〜〜」

上司とは「先月の売り上げ実績をもとに、今月の施策案をまとめました。各キャンペーンのKPIは***で、私の考えとしては現状***を最優先に〜〜〜」

……と、まあこんな感じで、触れるトピックも、言葉のカジュアルさも、使う文法も単語も「はじめから学び直し」くらいに違うのである。

友達と話してばかりで英語が上達したように感じても、違う状況の英語に慣れていなければすぐに言葉は出てこない。

「この単語だと失礼だな…言い換える場合の単語なんだっけ。あ〜〜学んだのに使ってないから出てこない…!」「ただこれについて状況説明したいだけなんだけど、ビジネスシーンではどの構文が適切なんだろう」

と、口に出すまでに時間がかかるし、その時間によって「あ〜まだ英語流暢に喋れないんだな」と認識されている気がして余計に焦る。

簡単な指示を受けた時にも、肝心の「〇〇をして」の動詞が聞き取れなかったり知らない単語だと、当たり前に何を指示されているのかが分からない。

ちょっと難しい単語に置き換えられただけで「はて…?」となる。


さらに混乱するのが、ネイティブがいつも正しい文法を使うわけでは決してないということ。逆に、座学を積んできた日本人は正しい英文法を使うことに長けている。が、日本人のわたしたちが主語を端折ったり、スマートフォンを「スマホ」パソコンを「PC」と略すように、ネイティブの言い回しは星の数ほど存在する。

了解のことを「りょ」、バイト先のことを「バ先」とするような若者言葉まで混在し始めたら日本語学習者は発狂したくなるだろう。

彼らは【日本語 スラング? りょ】をGoogleで検索したりするわけだ。そして「りょ、が了解だと……!?普通に了解って言ってくれよ!」と思うだろう。

私もまったく同じである。

なぜ普通の単語と!文法で!話してくれないんだ!!!

となる。しかしその感情を日本語でシェアできる相手など職場に一人もいない。

「ああ、ただの了解の意味だよ!気にしないで!(笑)」とネイティブから軽く言われるたびに、なんだか消えたくなる。


100%ネイティブに囲まれた、英語環境で働いていることを伝えると「いい環境だね!」と言われるし、私も最速で英語力を伸ばすためにその職場環境を望んではいた。


でも、実際ポツンとひとりネイティブの中に放り込まれて、アジアンすらも居ない場所で毎日コミュニケーションを取り、ネイティブのお客さんと対話をして8時間働くという毎日は、本当に本当に、本当にきついことだった(笑)。

純度100%ネイティブ環境で働くということは、自己肯定力が地に落ちる瞬間が1日に何度も何度も何度も何度も訪れるということで、その度に肩身が狭くなったり、申し訳なくなったり、情けなくなったり、悔しい思いをするということだった。

これが日本で、日本語だったらどれだけ楽か、と考えても仕方のないことを何十回と考える。

そして思う「私はわざわざ一人で異国に来て、わざわざ毎日つらい思いをして、わざわざ友達とも会えない日々を選んで、一体何をしているのだろうか」。

単身で異国に乗り込んだ人はきっと一度は思ったことがあると思う。「私は一体何をしているんだろう」。


わかるよね異国にいるみんな。異国経験あるみんな。ふと冷静になって、ちょっと待って、現実きつすぎだけど一体……?ってなること。

普通に泣くよね。大人とか関係なく帰り道とか一人で泣くよね。わかるの。


そんな感じで、特に生理期間でメンタルヘルスが崩壊していたこともあり、私はnoteを更新していない間【猛烈☆日本に帰りたいモード】に突入していた。

日本の友達に会いたすぎる。友達に会って、お酒を飲んで、日々のなんでもないことをシェアしあって、また頑張ろうね〜とハグをする

それだけのことが、カナダにいる限り一生叶わないのだ、この先も。そう思うと、控えめに言って仄暗い絶望の淵にいるような気持ちになった。


私の愛すべき大切なみんなは、一人として代わりなどいない。こっちに来てからできた大好きな人たちもいるけれど、現地に友達がいるからといって、日本の友達が恋しくならない、というわけではない。
どれだけ新しい友達ができても、私はあなたに会いたい。そして会えない間はずっと胸に穴があって埋まることはなく、ずっとずっと寂しいのだ。


「今帰ったらどうなるのかな」と、現実的に想像してみる。

真っ先に、もう二度と同じ挑戦をしないんだろうなと思った。
成長曲線の中で苦しみのピークにいる時に、耐えきれなくて離脱したのだから、もう同じ思いをしたくないと当たり前に思うだろう。

帰国したら帰国したで、日本に帰ってきてよかったと思うこともあるだろうし、帰国したことを正解にするためにまた頑張るんだろう。後悔を抱えて生きていくのは勇気が必要だし、あまりにも痛い。素直に認められるほど、私は強くない。“後悔”という形に固まってしまう前に“チャンス”や“きっかけ”に変えられるよう、必死になるだろう。

それもそれで、正解と言える。

だけど、異国のカレッジに通うとか、異国の職場で働いてみたいとは思わないだろう。ここで辞めたら、きっと二度と選ばない。


その未来を想像したら、無性に腹が立った。

今日の肩身の狭さが、友達に会いたくて泣いた夜が、無力すぎて心折られた瞬間が、「全部ここまで来るためだった」と言える景色に繋がらないなら、何のための苦しみ?

今できないことを全部できるようになって、それが普通の基準として異国で暮らしていける自分になれないのなら、何のための涙?

他の選択には他の正解がある。他の未来がある。他の満足や幸せがある。

そんなことはわかっている。だけど、「志望校に合格できなくても勉強した経験が人生の糧になるし」と思いながら、今日泣くほど勉強できる受験生がいるだろうか。

結果的にカナダでの痛みが、今望んでいる未来とは違う自分を救うとしても、そして今の自分に感謝するとしても、ひとつの経験値として人生に昇華されるだけなら「こんなに頑張らなくてもよかったじゃん」と思う。割に合わない。代償が大きすぎるだろうと、思う。

私はこの茨の直線の先にある景色が見たいし、見るために今は足を血だらけにして歩いているんだ。そう握り直したら、今帰るわけにはいかない。ここで、負けるわけにはいかない。

カナダに来てから幸せな瞬間は山ほどあるし、楽しいな、決断してよかったと思うこともたくさんあるけれど、抱えた痛みも大きい。増えた傷も多い。

「別にこの地で報われなくてもいいかぁ」とは、思えない。

報われなかったら、めちゃくちゃ腹が立つ。


かくして、【猛烈☆日本に帰りたいモード】は強制終了されたのであった。これから何度でも、また泣くと思う。「あ〜もう帰りたい」と言ってしまう日もあると思う。

それでも踏み締めて歩いてきた距離の分だけ、帰るわけにはいかなくなるのだ。

もう満足だ、腹も立たないと思える日が来るまで、帰国の選択にはずっと“挫折”や“後悔”の影が付き纏うだろう。厳しいね。

自分で望んで、自分で選んだことだから、言い訳ができなくてこんなに厳しいんだよね。

このnoteを読んでくださっている人のなかにもきっと、異国暮らしに限らず、同じように痛いほど潔い挑戦の最中にいる人がいると思う。心から敬礼を。

「逃げてもいいよ」なんて言葉は言えない。行けるとこまで、戦おうな。


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