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中学受験と日本国憲法の記憶

ここ最近は世の中の動きがあまりにも急峻で、でもそれは自分が意識していなかっただけで、きっと世の中を動かす人たちは計算し尽くしていたのではないかと思うくらいに、気がつくと大きな流れが生まれている。

流れに抗うことができるのか、自分の大切にしたいものやこと、人々を守るには、どうしたらいいのだろうとあれこれ悩んでいたら、前回のnoteから2ヶ月以上が経ってしまった。

それでも、思った時に、自分主語で言葉にしなければ、今の瞬間のことばはどんどん流れ過ぎていってしまうと思い直して、今筆をとっている。(キーボードに向き合っている、といった方が適切かもしれない)

先日、参議院選挙が終わり、友人たちと憲法改正について、話す時間があった。
婚姻の平等しかり、憲法9条しかり、はたと憲法ということについて最近考えることが多い。さて、自分のなかでの日本国憲法とはどんなものかと思いを馳せることとなった。

”日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。”

日本国憲法 前文より

これは日本国憲法の前文(の一部)である。
私はこの文章を暗唱できる。
自分の体には、この文章が染み付いているのだ。
そう、改めて思い出し、考えさせられた。

ご褒美が欲しかった憲法の勉強

小学校高学年のころ、中学受験をするために進学塾に通っていた。
そこでは社会の授業で「日本国憲法」があり、前文を暗記した人にはごほうびシールがもらえるという企画があった。
このシールはいい成績を取ったり、授業中に回答したりするともらえるシールで、集めると景品をもらうことができた。
クラスでも数人しか挑戦しないその企画に、シール欲しさに私は日々前文を復唱し、時に親に披露し、やがて暗記した。
塾で社会の先生の前に立ち、前文を一言一句間違えずに暗唱し、無事にごほうびシールを10枚もらったのだった。

私はその出来事があったから、日本国憲法の前文を覚えている。
20年以上経った今でも、冒頭から暗唱できるこの前文は、10歳そこそこの少年だった自分の考え方に、少なからず影響したと思う。

戦争を二度とおこさないこと。
主権が国民であること。
これが法やルールによって犯されないものであること。

世の中のあれやこれやも、魑魅魍魎も知らない子どもだった頃、戦争はしてはいけないものであり、自分たちに基本的人権があり、自分達に主権があると教わった。そして、それが戦後、昭和が終わるころに生まれた自分にも、心の奥深くの価値観として染み付いている。

教育と価値観

さて、それを振り返ったとき、この思想が、果たしてだれのおかげで身についたのだろうかと思う。
自分が中学受験をしなければ、「国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」、これくらいは言葉として知ったとしても(テストで穴埋めになるところだから、多くの子どもは言葉だけ覚えるだろう)、その意味や正確な条文、その背景にまで思いを馳せただろうか。
そしてその教育は、だれがどのような意図で作ったものだろう。
中学受験をしたことさえも、10歳にもならない自分が、あらゆる選択肢から、本当に吟味して選べたのか、今はもうわからない。ましてや、ごほうびシールがなかったら、きっと前文を暗記するには至らなかっただろう。
それでも、幼い頃の私は疑いもせずにその教育を受け、それもご褒美ほしさに丸暗記して、知らないうちに価値観の中に取り込んでしまった。
それがいいことだったのか、はたまた疑問に感じるべきことなのだろうか。
今の世の中の流れを見ながら、真剣に考えている。

アクティブラーニングなんてなかった時代、詰め込み型学習で価値観が形作られた自分が、今どうやって世の中の物事を判断し、選択していくのか。
幼い頃に自分の学ぶことを、本当に自由に選ぶことができたとしたら、今の自分はどのような価値観を持っていただろう。
少し怖さを感じる部分もある。
自分が判断するときのその根っこの感情や価値、それを作り上げてきた今までの人生の沢山の選択にも、向き合わなければいけない時が来ている。

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