全部自分のせい、その先は?
物事を自分のせいにするのがあまりにも簡単すぎるな、と思う。なんてったって自分のせいにするだけなんだもの。誰でもできる。責任感があるとかではなく、自分に非がある状況なら誰でもできる。それに関しては出来ない方の脳のネジが煮蕩けているだけだ。もしくは非を認めたらその時点でボコボコにされるような環境で生きてきたか。
だがその先がちょっとおざなりにされがちな気がする。「はいはい、自分が悪かったです。」じゃあ、あなたのどこが悪かったんですか?という話だ。
自分のせいにする、と言う行為が逃げに使われている気がするのだ。私は自分のせいにしたので、これ以上は立ち入らないでください、これ以上は個人の問題です。みたいな。
ズルだろ。これで「どこが悪かった?」なんて聞いてみなよ、十中八九答えは「は?だから自分が悪かったって言ってるじゃん!」だろう。質問を自分への加害だと取られたらもう残念、対話は通じない。もし相手が会話が通じる熊とかで、熊がこの態度をとったりしたら即座に手元のショットガンを撃つしか無い。
自己分析が足りてないくせにメソメソするのは自分の良くないクセだが、同族嫌悪もあって自分のどこがどう醜くてどう嫌いなのかをはっきりさせようとしていないのに不明瞭な自我を背負ってメソメソするのは違うんじゃないのかとTwitterにはびこる手首スラッシャーをやられていらっしゃる方々をみているとたまに思うことがある。
救いを求めているけど、結局誰が救ってくれるんだよ?今まで誰かが救ってくれたか?インターネットで気休めにもならない同じような奴らのリプライは持続的な幸せをもたらすのか?
自分で自分の手を取らなきゃメソメソしたまんま失血死の未来しかない。論理と言葉で自分を彫り出して、苦痛から逃げる正解を探すんだ。それは時に通院かもしれないし、時には苦しみを書き出すことかもしれないし、外に出ることかもしれないし、何もせず寝そべることかもしれない。
探すしか無い。暗い部屋で泣いていても、暗い部屋で泣いていない人間には何も伝わらないし彼らは俺らの為に立ち止まったりは決してしない。社会に殺されない為には理屈無く他人からの救いを求める自分を自己分析でぶち殺して、言語という白日の元に晒し上げることが必要なんだ。じゃなきゃずっとじんわり苦しいまんまなんだろう。俺は自分を言語で焼き殺す事に耐えられなかったからじんわり苦しいままだ。救ってくれ。それが無理なら殺してくれ。俺は自分を言語と分析で救う覚悟も、怠惰の果てに自分を殺す覚悟もない。暗い部屋に落ちている。全部俺が悪い。わかってる。じゃあ俺の何が悪かったんだろう?俺はどう醜い?どう歪んでいる?
自分の人生の希望さえ捨てれば、何もしなくたって許される。