エッセイの虚構、小説のリアル

私はあるエッセイ講座を受講している。
題材は自由で、作品を送ると講師が講評を書いて返送してくれる。
作品を送るとたいていは「そういう考えを書くのであれば、根拠がないと説得力がありません」とか「~したり」と書くと後に何か続くと読者は思うので、ふたつ以上のことがあるときに使用しましょうとかいう具合だ。
 特に時事問題を扱う場合は思索や調査を重ねた末に出された明確な答えを持っていないと、読者は「本当にそうなのか」と考え、作品への評価が厳しくなるそうである。
 確かに、言葉は共通認識をもって使わないと意味が伝わらなくなるので、文法や使い方を勉強することは大切だ。私は「ら抜き言葉」が嫌いで、「見れる」とか「食べれる」と書く人のブログやタイムラインには「いいね」をつけない。これは文法的に正しくないからということではなく、あくまで私の好みの問題なのである。だから書いた人が親しい友人であっても「ら抜き言葉は使わない方がいいよ」といった指摘は一切しない。
 このように人は好みを大いにまじえて文章を読むのだから、「正しさ」にこだわり、完璧を極めてみても、私の書いたものを好む人もいれば好まない人もいるという現実がある。だったら完璧に正しい文章を書けないからといって怯むよりも、正しくなくてもいいから書く方がいいと思う。
 エッセイではネガティブなことを書くなと言われる。これも確かに一理ある。読み手を暗澹たる心境にさせる文章を延々と書き綴ることをよいとは思わない。書くなら日記帳に書けという話だ。しかし、ネガティブな要素の一切を否定するのもまたよいとは思えない。友人のFacebookの投稿を読んでいて、「〇〇ちゃんちで宅飲み!大勢でワイワイやって楽しかった」なんて書かれると、かえって心の闇を感じてしまう。ネガティブなことは何ひとつ書かれていないのに、である。一方、「今日は雨。休みの日なのに雨。何もする気になれない。だから今日は何もしない日。雑事から自分を解放する日」文面だけを見るとかなりネガティブである。が、私は読後、文中では雨が降っているが、心が晴れたような気持ちになった。要はその時の読み手に共感できることは何もポジティブなことばかりではないということだ。それを分かっていないと、いろんなSNSにやたらとポジティブ風なことばかり書いて心の闇を覆い隠すようになってしまう。本当は楽しいと思っていない、あるいは何かが違うと思いながらも周囲の人に「この人は人生楽しく生きてるんだ」と思われたくて充実した私を装ってしまう。また、エッセイには論理的根拠がなくて、明解な解釈がないことは書いてはいけない。暗くなることは書いてはいけない。そう教え込まれ、自分の経験から明るくて、論理的で、明確な答えがあることを巧妙に切り取って書き連ねていく。これは「エッセイの虚構」と呼んでいいだろう。
 小説は嘘の話だとよく言われる。プロットからして創作物であるから、嘘の話といえばそうなのだが、何もかもが嘘の世界かといえばそうではない。
 『#柚莉愛とかくれんぼ』という小説にはアイドルのリアルが描かれている。Twitterでオタクからの書き込みに気持ち悪さをおぼえたり、周囲の期待する私を演じてアイドルでい続ける苦悩や、同じグループでともに活動する仲間への思いなど、アイドルでなくてもうなづける内容が盛り込まれている。『イシイカナコが笑うなら』という作品には、幽霊になったイシイカナコに人生をやりなおす計画をもちかけられた男性高校教諭が主人公として描かれている。中学生くらいに戻って人生やりなおしたいと一度でも思ったことがある人には共感できる作品だと思う。他にも芥川龍之介の作品に人生の機微を感じる人も多い。まさに「小説のリアル」である。
 エッセイが虚構の世界だからか、私はたまに「エッセイのリアル」を求めたくなる。先日リアルな思いを綴ったエッセイを添削に出したら、本文より長い講評が書かれて戻って来て、思わず笑ってしまった。こんなにツッコミどころが満載のエッセイもそうそうないのではないかと。リアルを求めるために書き始めたエッセイが虚構のかたまりになりつつある。リアルを求め続けるために、私は小説の勉強をしようかと真剣に考えている。
 

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