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「お菓子な絵本」 2.秘密指令

2.秘密指令


「マシュー・シュヴァルツ! 今日こそは」
 真利江は息子のワイシャツの衿首をむんずとつかんで引き戻した。
「許さない。そんな体で学校だなんて」

「頼む、母さん。見逃してくれ」
 真秀は何とかして母親を振り切ろうとする。
 が、それは無駄な努力に終わった。朝日のまぶしい玄関先での親子対決は、圧倒的に母親優勢であった。

「第一、朝ごはんも食べてないし」
「食欲がないんだ」
 38度も熱があれば当然のことだ。
「それに上着はどうしたっていうのよ」
「あんな暑っ苦しい制服なんて」
「生徒会長に立候補する人が、自ら校則を破るってわけね」
「だからその選挙が明日に控えてるんだ。絶対に休めない」

 会長になった暁には、きゅうくつな制服は廃止。と真秀は考えた。だが、朝っぱらから制服についての議論を母親と戦わせる気はなかった。

「この時期に休んだりしたら、皆の信頼を裏切ることに」
「企業戦士にでもなったつもり? あなたが休むと明日の選挙は中止なの?」
「いいや」
「だったら今日のところは、ゆっくり休んどくこと」

 真秀の体は回れ右をさせられた。

「昨日みたいに『保健室で倒れてますから迎えに来て下さい』なんて、ごめんなの。それに低レベルの選挙活動ができなくて落選するっていうなら、あなたも大した器じゃないってこと」
「ひどい母親だ。相手はみんな3年生なんだよ」
「じゃあ、あなたも3年になったら立候補なさい」
「2年でやるから意義があるんだ。校内がまだ、新鮮に見えるうちがいいんだ」

「とにかく」
 母親は、わめく息子の背中を階段へと押しやった。
「あなたが今日どうしようと、地球は回り続けるのよ」

 ついに真秀は観念した。たとえ相手が校長であろうと、どこぞやの王さまであろうと、大統領であろうと自分の主張は曲げない心構えがあっても、我が母親にだけはどうしてか、いつだってかなわないのだ。



 寝室を兼ねたその部屋は、中学生男子の部屋にしては非の打ちどころがなかった。すべての物が、あるべき場所に完璧に収まっている。
 窓辺に鎮座するのは天体望遠鏡。150ミリの反射型だ。天井付近に並ぶ星雲や彗星の天体写真。これはアマチュア天文愛好家であるドイツの祖父が撮影したもの。
 引退したテニスプレイヤーのポスター。北欧の貴公子と称されていた彼の沈着冷静にして鮮やかなプレイを、真秀は心から尊敬していた。
 コルクボードにピンで無造作に留めてある、真秀の手による数枚の鉛筆画は、両親のコレクションである往年の演奏家の CD や LP ジャケットを模写したもの。
 廊下側の壁面は一面の本棚。半端でない蔵書数だ。
 パソコンデスク隣の学習机には、コンピューター制御のレゴのミニカーと、ミニコンポ。
 木製の額に入った家族三人のキャビネサイズの写真。劇場の舞台のグランドピアノを囲み、あふれんばかりの花束とともに幸せそうに写っている。音楽家でドイツ人の父親は、さらりとした金髪に優しげなグリーンの瞳を持っていた。真秀の瞳と髪は母親と同じ、茶色がかった黒。引き締まった口元とすっきり整った輪郭は父親譲りだった。

 真秀はベッドに転がってふてくされていたが、やおら飛び起きて机に向かった。
「そろそろ遅刻組が通る頃だ」
 急がないと。カバンからレポート用紙を取り出し、迅速に何やら書き付けていく。それをクリアファイルに挟んだ上、大きめの茶封筒に入れて表に油性ペンでメッセージを書き込む。これでよし。
  
 窓から身を乗り出すと、集団登校らしい小学生の列がわいわい通り過ぎていった。次に来たのは、ワイシャツをだらしなくズボンの外にはみ出させた中学生。真秀はとっさに、「ねえ、きみ!」と叫んだが声にならなかった。風邪で喉をやられているせいか。
 手近な紙をひっつかみ、合図を送るべくヒコーキにして飛ばしてみる。が、残念ながら道路には達せず。
 もっと丈夫な紙……。真秀はSF映画のカレンダーを引き破り──その月はまだ終わっていなかったが──、ハサミでスパッと四つに切り分けヒコーキを折り、チャンスを待った。
「この折り方が一番よく飛ぶんだよな」

 知った顔がやって来る。確か隣のクラスだっけ。絶妙のタイミングでヒコーキを飛ばす。それは彼の足元に落ち、そして、無惨に踏みつぶされた。

「ああ、もう!」真秀は飛び上がって怒った。熱がますます上がりそうだ。校則に反して携帯を密かに持っている者に心当たりがなくもなかったし、あるいは自分が通りに出て誰か捕まえて頼めばすむことなのに、ひとたびこのやり方でいくと決めたからには今更あとには引けないのだ。

 お次。詰襟をぴしっと決めて足早に登場したのは……。いや、奴はダメだ。あれは対立候補の腰ぎんちゃくだ。

 鼻歌が聞こえてくる。あれは我が親友ではないか! やったぞ。紙ヒコーキは親友の目の前をすうっと横切った。彼は立ち止まり、地面に落ちたヒコーキをじっと見つめる。
「見ろ! 飛んできた方向を見るんだ!」
 真秀は窓枠をバンバン叩くが、脇を通り過ぎる車の音にかき消されてしまう。
 親友は首を傾げ、立ち去った。
「あのバカ! 有能なる片腕と信じてたのに!」

 真秀があきらめかけたとき、彼女は現れた。脇にはテニスラケットを抱えている。先輩だ! とっさに窓から身を隠す。彼女が通るとき、いつもこの部屋を見上げてゆくと知っていたから。

  どうする? だけどこれが最後のチャンスかも 。

 意を決し、真秀はわざとらしく少し気取って窓辺にたたずんだ。
 沢城郁子。テニス部の先輩で、何かと真秀に絡んでくる、悪ふざけの天才。
 案の定、彼女はこちらを見上げ、二人の視線がバチッとぶつかり合った。彼女はぱっと顔をそらし、うつむきながら通り過ぎようとする。

「先輩、違うんだ」

 真秀が全神経を紙ヒコーキに集中させた時、風がそよいだ。真秀の手を離れたヒコーキは風に乗って先輩のセーラー服の背にコツンと当たった。
 彼女は振り返り、いぶかしげにそれを拾いあげると、不敵な笑みを浮かべ真秀に投げ返してきた。ヒコーキが窓の真下の植え込みに落ちる。同時に真秀は封筒もそこに落下させた。

「せんぱーい。それ、お願いします!」

 真秀のかすれ声は先輩の耳にかすかに届いた。よくあることだが、好意を持っていれば相手の意図はたやすく読み取れるものなのだ。沢城郁子の場合もまたしかり。真秀が何を望んでいるのか即座に理解した。

 郁子はちょっとドキドキしながら、シュヴァルツ家の庭に足を踏み入れた。

 つたのからまる優雅なアーチが異国情緒をかもし出す。春満開のプランターがリズム感あふれる配色でポーチへと続く。色とりどりのチューリップ、デイジー、甘い香りのフリージア。大切に育てられ、北国の冬を越してきた花々が奏でる春の喜びのワルツ。
 憧れの庭をいつまでも眺めていたかったが、郁子は目的を果たそうと努めた。手入れのゆき届いた植え込みを探り、封筒を見つけ出す。表にはこう書かれていた。

「親切なきみへ。これを2年D組へ届けてくれ」

 先輩はうなずきながらOKサインを真秀に送り、散乱していた紙ヒコーキを回収すると足早に立ち去った。
 真秀の家が遠ざかったところで、辺りをはばかりながらこっそり封を開けてみる。遅刻の心配よりも、好奇心の誘惑に勝てなかった。中にはA4大の二枚の紙。一枚目にはこうあった。

「秘密指令」 

 2年D組の諸君。                           
 残念ながら本日ぼくは母親の陰謀により、欠席せざるを得えない状況になってしまった。
 よって、校門で演説する予定だった内容をここに記す。コピーしてバラまいてくれたまえ。

 尚、この文書が事前に敵対勢力の手に渡ることのないよう、細心の注意を望む。最悪の場合は破り捨てるなり、飲み込むなり、きみらの判断に任せよう。

          ──  成功を祈る。 クロ



〈クロ〉とは真秀のあだ名のひとつであり、名字のシュヴァルツが日本語で「黒」という意味になるところからきていた。

 先輩はこの愛すべき後輩に投げキッスを送りたくなった。

 二枚目には演説の内容が書かれていた。なぐり書きといえども立派な筆跡である。

「2Dの連中なんかに渡すもんですか」
 沢城郁子は、ほくそ笑んだ。
「真秀シュヴァルツの演説ビラを配るのは、あたしの役目よ」

 大役を独り占めできると思うと、身も心も躍るのだった。




3.「お菓子な絵本」へ 続く……




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