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【読書記録】後編:世界で一番親切なまちとあなたの参考文献〜人見知りで世間知らずな俺がまちづくりを始めて20年が経ったんだが

今回の読書記録は、私の友人であり、まちづくり活動において先輩にあたる谷亮治さんの『世界で一番親切なまちとあなたの参考文献〜人見知りで世間知らずな俺がまちづくりを始めて20年が経ったんだが』です。

前編に引き続き、後編の記事となります。

谷さんの著作はこれまでの書籍を含めて三冊あり、これらを今の私の立場から読み解こう、という思いつきからまとめ始めました。

一冊目は、『モテるまちづくり:まちづくりに疲れた人へ。 (まち飯叢書)』

二冊目は、『純粋でポップな限界のまちづくり: モテるまちづくり2 (まち飯叢書)

今回扱う『世界で一番親切なまちとあなたの参考文献〜人見知りで世間知らずな俺がまちづくりを始めて20年が経ったんだが』は、その三冊目の書籍です。(前編・後編を合わせた完全版は以下のリンクからどうぞ)

いずれも、著者のこだわりとセンスを感じるタイトルです。

前編のおさらい

前編では、まずはじめに「著者・谷亮治さんと私について」を取り上げました。私が京都のNPOに所属していた際、京都市まちづくりアドバイザーというポジションにいた谷さんとまちづくり事業をご一緒したことがきっかけで、彼の著書にも出会うことになりました。

彼の著書は、私が地元に帰って米作りの現場に飛び込んだ今もなお、読み返すたびに新鮮な学びと発見をもたらしてくれます。

続いて、谷さんが考える「まちづくり」の定義について」確認しました。本書における「まちづくり」とは、「まち(の人なら誰でも使える公共財)づくり」と定義されています。

公共財」とは、「非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有する財」と定義される経済学由来の用語です。

非競合性とは、ざっくり「資源の奪い合いにならない度合い」を言い、非排除性とは、ざっくり「利用者を選ばない度合い」を意味します。

「まちの人なら誰でも使える財産を創り、育て、しまう営み」……そういった営みを谷さんは「まちづくり」と呼んでいます。

以上の前提確認をした後、「日本における「まちづくり」の歴史」とその潮流の変化で現れてきた「"ゆるい"まちづくり」の登場」について紹介しました。まちづくりは国土開発というプロフェッショナルのみによる領域から、阪神淡路大震災以降に顕在化した有志のボランティアが参加し、行政、市民、企業、大学らとも協働しながら行うものとして変化してきました。

しかし、「"ゆるい"まちづくり」は従来の専門家には発想しえない取り組みが生まれている一方、趣味的活動の延長として徒らに貶められている場合や、まちづくり活動そのものがマネタイズされる圧力がかかることで「再プロ化」の流れも生まれつつあります。

「まちづくり」のこれからを考える上で「「まちづくり」に登場する関係者たち」の存在を改めて確認するべく、現在「まちづくり」に関わりうる関係者を、ボランティア活動家から行政、町内会に至るまで見てきたのが前回でした。

詳しくは、前編の記事もご覧ください。

ところで、私が考えるに「まちづくり」とは「まちで暮らす人々自身が参加することで、自分も取り巻く環境も含めて気持ちよく過ごすための取り組みを起こし、活動し、役目を終えたら閉じていくもの」でもあるように思います。

そこには、当たり前の人と人の関係や、仕事関係に止まらない継続的かつ家族も取り巻く複雑な関係性のシステムを扱うことも含まれています。

では、そもそも人と人が何か活動を起こしたり、一緒にうまくやるには、どのようなことが必要になるのでしょうか?という問いが、後編の始まりです。

そもそも、人と人が一緒にうまくやるには?

まずは、人と人が協力する上で不可欠なところ。普段、意識されない人間関係、明文化されていない集団の力学を意識してみましょう。

まちづくりとファシリテーション

まちづくり現場に身を置いてきた谷さんによるファシリテーションの定義は、「人々の目的達成を促すことを狙いとした、環境(モノ、ヒト)への関与」というものです。

昨今のまちづくりの現場では、ファシリテーションが重要だと考えられるようになっていますが、それはここ30年ほどの流れであるとのことです。

戦後以降の「国土開発」、そして「都市開発」、「住環境整備」のような取り組みでは一般の人々は市民参加、住民参加という形で動員され、行政の意思決定の段階に意見を取り入れる存在として認知されていました。

しかし、参加と協働の潮流が生まれると、広く市民の意見を取り入れ、幅広い要望や意見の調整が必要になりました。

まちには多様な人々が住んでおり、地域内の上下関係や意見の対立が発生する、行政に対して一方的なクレームや要望を伝える場になってしまうなど、多様な人が集まる場を作る場合、相応の準備が必要になるという理解が進みました。

そこで、市民参加の場を円滑に運営し、狙いを実現できる特殊な環境設計技術が必要になり、ワークショップ、ファシリテーションに注目が集まるようになりました。

また、1990年代後半以降は、まちづくりが意見や要望を伝えるものというものから、その後の具体的な事業運営も含めて産官学民の協働と実施が求められる機運が高まってきました。

これにより、ファシリテーションに求められる役割も合意形成からその後の実施を見据えたチームビルディング的な要素の比重が増えて行くこととなりました。

京都においては、2000年代後半に特定非営利活動法人場とつながりラボhome's viがアメリカで生まれたファシリテーションの手法をまちづくりの事業に導入し、「京都市未来まちづくり100人委員会」にて実装、その後、区役所レベルでの市民協働の基本設計の手段として定着していきました。

人は1人では生きられないが、集まるのが上手というわけでもない。

1人で自分の目的を達成することには限界があります。だからこそ、人は集団を作るわけです。

では、なぜ集団にファシリテーションが必要になるのでしょうか?

ここで著者の谷さんは、そもそも「他人は基本的に怖いもの」なんですよ。と話します。「本来、他人ってリスクなんですよ」と。

つまり、他人と関わると、損失させられるかもしれないっていう不安があるわけです。「こんなことをしたら怒られるんじゃないか」、「恥を欠かされるんじゃないか」、「馬鹿にされるんじゃないか」、「軽んじられるんじゃないか」、「不当に損をさせられるんじゃないか」、「裏切られてタダ乗りされるんじゃないか」などなどですね。こういうのを「対人リスク」といいます。

谷亮治「世界で一番親切なまちとあなたの参考文献」p118-119

また、人が集団や組織を作る場合、しばしば上下関係を伴うピラミッド構造を作りがちです。

そうなると、権力関係の強弱により、コミュニケーションの行き違いも起こりやすくなります。

「わし聞いてへんぞ」問題

また、組織に限らず様々な集団内において、暗黙の権力関係やシステムが存在している場合があります。

まちづくりの現場では「わし聞いてへんぞ」問題といった形で発生します。

ある人の提案が会議などの場で出された時、事前の相談がなかった場合などに発生するものです。

これはすなわち、「何かあれば、わしに前もって相談するべき関係性が存在している」という認識やシステムが働いていることになります。

互いの視座や認識が異なることは、多様な人々の集うまちづくりの現場ではよく起こりがちになるのかもしれません。

ちなみに、「わし聞いてへんぞ」問題において、谷さんは中立的な視点を持ちつつ、「ノブレス・オブリージュ」について述べています。

すなわち、「まちの現場において人知れず汗をかき、責任も持っていることからくる高潔な自負」があるからこそ、「わし聞いてへんぞ」と言いたくもなるのだ、と。

立場の違いが認識の違いを生み出すことは、例えば「お役所の人間」と「私たち」という形でも起こりうることかもしれません。

活動の仲間づくりと広報を考える

さらに、仲間づくりや広報もまた、人が集団になることの難しさを考えるきっかけを与えてくれます。

効果的な仲間づくりや広報については、技術的、方法論的な解決法も存在し、本書中でも実際に触れられています。

ところで、この技術的、方法論的な解決法の中には、人道的に、あるいは感情的・感覚的に難ありな方法が含まれる場合があります。

仲間づくりで言えばいわゆる「オルグ」。広報で言えば「プロパガンダ 」。行動の促し方ということでもう少し裾野を広げれば、「理詰めで押し通す」「脅迫・恫喝する」「権威によって命令する」などです。

このような方法もありますが、それを日々同じまちに暮らし、おそらくその後も長期間に渡って活動に影響を及ぼし合う人たちにやりたいですか?という問題があります。

このように考えてみると、「人は1人では生きられないが、集まるのが上手というわけでもない。」という命題は重大であり、「一人ひとりの人(独自の立場から来る視座、認識の違い)に対する尊重、尊敬の姿勢」が、人と人が一緒にうまくやるために重要になりそうです。

まちづくりプロジェクトは何をめざすか?

そもそも、人が何かを一緒にやるとなった時にうまくいかないパターンがあることを見てきました。

その様子を著者である谷さんは「人は1人では生きられないが、集まるのが上手というわけでもない。」と評しています。

それでも、集団や組織になることには、自分1人にできない規模の活動や影響を発揮する可能性が秘められています。

では、「まちづくり」においての活動、「まちづくり」プロジェクトをうまくやっていくには、どのようなことを意識していくと良いのでしょうか?

そもそも、プロジェクトとは何か?

「まちづくり」に関する企画を実施するとなった時、その人の頭の中には「こんなまちができるといいなあ」という理想の未来像があるはずです。

しかし、放っておいても実現することはできません。

そんな時に、プロジェクト、という考え方を用いることができます。

谷さんの言う「プロジェクト」とは、以下のようなことを言います。

プロジェクト:「目標」と「期限」が定まっている営み。
目標:プロジェクトの成果としての「具体的な状況」
期限:プロジェクト実施における「いつまでに」のこと

さらにここから、「目的」と「目標」についても明確にしていきましょう。谷さんによれば、「目的」と「目標」は「抽象的か、具体的か」、「自分自身のことか、それ以外にかかることか」の二軸、四象限で整理することができると言います。

この場合、抽象的軸が「目的」、具体的軸が「目標」と整理できます。

そして、「目的」を「自分自身のことか、それ以外にかかることか」を分けることができます。

「抽象的」かつ「自分自身」のことであれば、「思い」。
「抽象的」かつ「自分以外」のことであれば、「願い」。

「目標」もまた、「自分自身のことか、それ以外にかかることか」で分けてみましょう。

「具体的」かつ「自分自身」のことであれば、「行い」。
「具体的」かつ「自分以外」のことであれば、「狙い」。

このように谷さんは整理しています。

「目的」と「目標」の混乱もまた、「まちづくり」プロジェクトをうまく進めていく上で整理が必要なポイントです。四象限のうちどの象限について話されているかが食い違っていると、話を進めることが難しくなるためです。

「まちづくり」で稼ぐとは?

ある人が自身の「まちづくり」の活動により時間と労力を割き、継続していくためにはお金を儲けていくこと…すなわちお商売をすることが必要になる場合があります。

では、そもそも商売とは何か?について、著者の谷さんはサンドイッチを売ることを例に出しています。

しかし、私の手元にはサンドイッチの画像がない為、行きつけのカフェのモーニングセットを事例とします。

モーニングセットを作るには材料の仕入れが必要であり、仕入れ値よりも高い金額をつけて売ることができれば、儲けを得ることができます。

売値をつけることでタダでモーニングセットを手に入れたい人を排除することができ、また、買われてしまったモーニングセットは他の人が食べることはできません。

この、売値をつけることで特定のお客さんを選ぶことができる性質を「排除性」、ある人が買えてある人が買えなくなる性質を「競合性」と経済学では呼ぶそうです。

おおよそ、商売において提供しうる商品は、この「排除性」と「競合性」と言う二軸で作られる四象限で理解することができます。

整理すると、以下のようになります。

私的財
競合的かつ排除的な財。先述のサンドイッチ、モーニングセットのようなモノを売る商売モデルで扱われる代表的な財。

コモンプール財:
競合的かつ非排除的な財。「まちづくり」で扱いが難しい財。
誰もが利用でき、一方で利用することで減ってしまう財。石炭、石油、木材などもこちら。財に対し対価を払ってくれる利用者の仁義に頼るモデルとなる。

クラブ財:排除的かつ非競合的な財。ある財に対して箱に入れ、鍵をかけると言うメンバーシップのモデル。サブスクリプションなどもこちら。

純粋公共財:非排除的かつ非競合的な財。知識、情報、思想などのこと。これだけでは商売にならない。ブランドもまた純粋公共財であるため、評判を上げてモノを売る作戦で有効。

上記の財の整理から、「まちづくり」はコモンプール財、クラブ財純粋公共財を作る営みということができるでしょう。

しかし、いずれの財で稼ぐ場合にもまちづくりで稼ぐ場合には「信頼と実績、仁義」が必要となります。

まちづくりは当然ながらあるまちという領域において営まれるものです。コロナ禍以前、京都では「オーバーツーリズム」が問題となっていました

オーバーツーリズム」とは、増えすぎた観光客により、地域住民や生活環境に悪影響が出ることを言い、スペインのバルセロナ、イタリアのヴェネツィアでも取り上げられている問題です。

京都というブランドは純粋公共財として文化都市、観光地としての評判を高めることができましたが、その結果まちの許容量を超えてしまいました。

このようなことからも、まちにはある程度の量の限界があり、質を高めていくこと…動員数や売り上げだけではなく、いかにまちを訪れる人・まちに住う人が心地よい空間を共にできたか、のようなことが大事になってくるように思います。

まちづくりプロジェクトの終わらせ方とは?

プロジェクトの定義を振り返ってみましょう。プロジェクトとは、「目標」と「期限」が定まっている営みでした。

まちづくりプロジェクトも、プロジェクトである限り終わりが訪れます。

一方で、「やめたいのにやめられない」、実態としては死んでいるのに動き続けている「まちづくりゾンビ」とも呼べそうな活動も存在します。

これはそもそも、プロジェクトとして機能していない……つまり、明確な目標も期限も持たず活動をスタートしてしまい、袋小路に陥ってしまっているケースがあります。

そして、このケースとは別に2つのパターンが考えられます。

それは、まちづくりプロジェクトにおける「顕在的機能」と「潜在的機能」が働いているパターン、もうひとつがまちづくりの「永続化」志向です。

まちづくり活動には、「このまちがこんな風になったらいいな」という目的のもと、ある企画が練られ、実施へ移されます。これは「顕在的機能」です。また、まちづくりの名目として集まっているからこそ満たされるある特定のニーズ……地域の人たちとワイワイやる、自分に特別な役割ができる等、これらは「潜在的機能」です。

「潜在的機能」が働いているために、あるいはそもそもルーティンワークから外れて終わりの決断をし、実行することは大変なことでもあります。
だからこそ、続けてしまうこともありうる。

また、まちづくりは長きにわたって自分が住むことを想定する地域に対して働きかける営みでもあります。そして、役所も住民も一度立ち上げた活動を途中で放り出す「やりっぱなし」を嫌う傾向もあります。これが、まちづくり特有の永続化志向です。だからこそ、続けてしまうことがある。

そもそものまちづくりの始まりに立ち返れば、「自分たちが住むまちが住み良くなるように、専門家や行政に意見を届ける」ところから「参加と協働」の時代に移り変わり、「自らも活動に継続に取り組んでいく」という変化がありました。

根底にあるのは、「信用できる人の集まる安心安全な領域」への期待・願いと呼べそうなものです。

そして、これはインフラのようなものであり、期限付きであったり、何かの拍子に揺らぐと、私たちは「困る」と感じるわけです。

「コミュニティ」と「アソシエーション」

ここで、私たちはまちづくり活動を「コミュニティ」と「アソシエーション」という2つの側面から捉えることができます。

そもそも「コミュニティ」とは、R.M. マッキーヴァーが1910年に提唱した概念であり、「人々の共同生活が営まれる領域」と定義しています。

同時にマッキーヴァーは、「コミュニティ」に対し「アソシエーション」という言葉を用意しました。

「アソシエーション」とは、「コミュニティの中で目的の共有によって作られる集団」のことです。

他方、国内で「コミュニティ」という言葉が一般化したのは、1970年代でのこと。その当時の政府系製作委員会による「コミュニティ」の定義は、「人々が個人や家族を単位として対等な立場で相互扶助できる集団」としていました。

ここに、ある意図による「コミュニティ」という語の混乱が生まれました。

しかし、2020年代に差し掛かり、「ゆるいまちづくり」を考え直している今、「コミュニティ」の定義を原義に戻そうという声が上がりつつあり、原義の「コミュニティ」を理解することより、「まちづくり」を捉え直すこともできるかもしれません。

コミュニティは「人々の共同生活が営まれる領域」であり、人々の共同生活によって自然発生するものです。しかし、コミュニティは放っておくと自然と荒れていってしまいます。

なぜなら、「安心安全の領域」を維持するために「閉鎖的・排他的」になってしまうと、人は高齢化の末どんどん減っていってしまいます。また、対立や紛争が起こったら逃げ場がありません。かといって場を開きすぎたら、得体の知れない人々が増えすぎてこれまた安心安全ではなくなってしまう。

そのような「コミュニティ」の危機の際に、「アソシエーション」は目的的な集団として結成されるのです。

このような捉え方でまちづくりを見直すと、「コミュニティ」は永続的でないと困るが、「アソシエーション」はプロジェクト的であって良いと考えることができます。

終わりがあるから、僕らはしゃんとできる

良好な関係を維持するためには、エネルギーが必要です。エネルギーが枯渇しているのに、無理に続けようとしたら疲れてしまいます。

しかし、世の中には終わり方を決めずに始めてしまったプロジェクトも山ほどあります。

その場合は、「プロジェクトを終えるプロジェクト」を始めるべき、と著者は言います。

何かをやめるって、面倒。

永続化しようとするまちづくりを意識して終えることは、不自然なことと言える。

会にしろ、人生にしろ、「死」を眼差すのは勇気のいること。

このような様々な理由はあるものの、「しかし、その勇気を持った者こそ平和と安寧を勝ち取れるのだと思うんですね」と著者は語ります。

ちゃんと終われないのは「後味が悪い」んです。恋愛でもそうだけど、自然消滅っていうのは後味が悪いわけです。後味が悪くて顔が合わせづらいっていうのは、コミュニティにダメージがあるってことです。なんとなく連絡を取り合わなくなったまま自然消滅すると、「ああ、この人は嫌なことがあるとそういう消え方するんだな」と思われてしまう。信頼が損なわれてしまう。

谷亮治「世界で一番親切なまちとあなたの参考文献」p354

アソシエーションは終わっていい。コミュニティが残せればいいんです。再会したときに「あの時は大変だったけど、楽しかったね」と笑いあえて、つながりを再開できる関係を作っていく。時間を味方につける。積み重ねていく。そのためにも、ちゃんと終わることです。(中略)この時間の蓄積を未来につなぐため、今日、ちゃんと終わっていきましょう。

谷亮治「世界で一番親切なまちとあなたの参考文献」p355

終わりに

およそ3年越しに、本書の著者であり友人の谷さんの三冊の書籍の読書記録をまとめ終えることができました。

この3年ほどの間に、私は公私ともに大きな変化があり、そのために読書記録の取り掛かりも中断していました。

父の病気をきっかけに、京都のNPOで働いていたところから、実家の田んぼを引き継いで軌道に乗せた経緯については以下のマガジンにもまとめています。

そして現在は、再び組織運営のサポート、伴走支援のお仕事を再開した他、フレデリック・ラルー氏の提唱した『ティール組織(Reinventing Organizations)』と、ピーター・カーニック氏が提唱した『Source Princip le(ソース・プリンシプル/ソース原理)』の実践での統合を試みています。

そんな中、私にとって谷さんの三冊の書籍は、田んぼを継ぐ前後で分断された流れを繋ぐミッシング・リンクのような存在だと、読み返しながら感じていました。

『ティール組織(Reinventing Organizations)』、『Source Princip le(ソース・プリンシプル/ソース原理)』、まちづくり、実家を継いでの米づくりや地域活動……これらの活動の中で私が願うのは、「集団の中の一人ひとりが持つかけがえのない創造性を、発揮していけること」です。

人は1人では生きられないが、集まるのが上手というわけでもない』と谷さんも述べていますが、人が集まって一緒にやることを『上達することは、できる』のではないか、と私などは思うのです。

上達の方法は、様々です。

自分の置かれている組織や集団がどのようなルールやシステムによって形作られているのかを知ること

自分の中に息づく感覚を他者と分かち合うコミュニケーションを学ぶこと。

自然の生態系の営みから、人や社会を眺めること。

かけがえのない自分自身の創造性を取り戻し、他者もまた尊重すべき存在として愛すること。

谷さんが身を置くまちづくりの現場とは、ワークショップが行われる特殊な環境設計の施された空間ではなく、契約上の籍を置く職場でもなく、日々の暮らしの現場であり日常です。

私の願う「集団の中の一人ひとりが持つかけがえのない創造性を、発揮していけること」とは、日々の暮らしの中で一人ひとりが輝けること。

何気ない日々の中で誰もが特別な存在であり、その価値が発揮される場があること・見つけられることです。

そういう考えると、「まちづくり」について書かれていたはずの書籍たちが、人が集まって一緒にうまくやっていくためには?や、そのために考えるべきポイントやモノの見方とは?というような、普遍的な人の生活や暮らしに通じる知恵や視座を与えてくれるもののように思えてきたのでした。

このタイミングで読み返せて本当に良かったと思います。改めて著者の谷さんに感謝を。


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