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ゼロから始める伊賀の米づくり11:稲刈り編:計2.5t収穫、精米〜出荷

米の収穫を終えた翌日。籾摺りが始まる。

家のすべての田から取れる稲穂は、一旦乾燥機に入れ、乾燥させる。そして、籾を精米し、袋詰めし、そして農協(JA)へと出荷する。例年、苗の注文時にどれだけの出荷をするかを提出する。年によって、天候の都合で不作になる時、豊作になる時、様々だ。

収穫したその日の内に、籾を乾燥機に入れ、翌日の朝から始める。そういった算段で進んでいく。

収穫の日の早朝6時半、父の友人Sさんの家に母は6時半から出かけて行った。今年は、私の家とSさんの家の、2つの家の乾燥機を駆使して、一日弱で籾摺りを終わらせる戦略を取っていたのだ。

籾摺りと精米

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今年は、おおよそ例年の8割程度の収穫になるだろう、との見込み。出荷量は、例年より少し少なくなるだろう。


Sさんは言う。
「田んぼが広いと、なかなか作業は終わらん。だから、この時期は1週間くらい仕事の休みをもらってやるんや。天気が悪かったりしたら、簡単に予定なんてずれ込んでしまう。余裕持ってやるためにもな」

「朝、どんなに天気が良くても10時くらいから稲刈り。それまでに、前日までの米の乾燥と籾摺りを終えるんや。一度刈った米を乾燥機に入れると、大体一晩くらい時間がかかる。雨の中収穫して水分量が多かったら、既定の水分量まで乾燥機はさらに長く稼働する。」

「で、早朝6時半くらいから乾燥が終わった米の籾摺りと精米。そうして、乾燥機を空にする。そうすれば、9時半くらいに精米も終わり、30分くらい休憩したら稲刈りに出られる。で、昼過ぎには終了。乾燥機に籾を入れる。これの繰り返しや。」


と、台風10号の影響で再び雨が強く降り始め、一旦作業は中断。この雨の時に、Sさんの家の乾燥機も故障してしまい、クボタの担当者を呼ぶらしい。

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原因を調べてみると、どうやら昨日のコンバインで土も一緒に削ってしまった時、小石が米に紛れてしまったらしい。この小石が機械に詰まってしまっていたのだ。

…なるほど、ここでも上手い刈り方かどうかで変わるんだなぁ。

雨も小降りに、そして止み、再び作業を再開。


結果的に、Sさん宅の精米機では30キロ×44袋取れたが、大森家の精米機はどれだけ取れることか。


機械の操作が中途半端にわからない部分があったため、省ちゃんも家に駆けつけてくれることになった。
乾燥機から籾の排出、精米機で良質米、籾殻つき、特定米に篩わけしながら、最後は袋づめにしていく。乾燥機から精米機への供給量を一定に保ち、作業は機械がやってくれるので、最後袋詰めのところが人間の仕事。


この計量機が、昨年はどうにも動かなくなってしまい、難儀したことがあった。

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父主導の稲刈りだったが、当日になってマシントラブルがあると、修理できない時間は待ち時間として何もやることがなくなってしまう。
今年に関しては、きっちり動いてよかった。


袋詰めした米は、JAに出荷する分はパレートに運び、積み込んでいく。
ここで、Hさん登場。Sさんはある程度見守ったところで、帰っていくことになった。

いよいよ終わりに近づいた時、米は最終的に30キロ×36袋できた。家用の保有米と出荷用の米が、これで出揃ったわけだ。

最後の機械メンテナンス

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これで作業は終わらない。平山さんによる機械メンテナンス講座だ。
事前の準備と同様に、乾燥機、精米機の、米や籾殻が詰まりやすいところを、ネジを1つ1つはずし、カバーを開けて掃除していく。

そうすると、溜まっていたゴミがザッと出てくる。これらを箒とちりとりで丁寧に掃き掃除。ただ、これを中途半端にすると、機械の中に余った米を求めてネズミがよってくる。ネズミは機械の中に入り込み、ケーブルをかじったりして来年以降の作業をやりにくくしてしまう。
それを防ぐためにも、丁寧に掃除をしていく。これまで、父や祖父がメンテナンスしてこなかった部位まで、丁寧に。


木屑、泥、籾殻、それらが粉末状になってたまった床に寝そべりつつ、そこに腕を突っ込んだりしつつ、力が入りづらい指先に力を込めてネジを緩め、はずし、元どおりにし、掃除していく。


既に、履いているジーンズもきていた長袖シャツも汗でずぶ濡れになっていたが、ゴミまみれ、埃まみれになって白く汚れていく。もう、ここまできたら体力の限界だが、一息で終わらせる。


一段落した時、平山さん。
「よし、こんなもんで良いか。帰るわな。また、何かあったら呼んで」
「ありがとうございました」
これにて一件落着、ではない。


再び、倉庫に戻り、清掃作業に戻る。機械のメンテナンスは済んでも、倉庫全体の掃除と、籾殻避けのシート、籾殻の処分は終わっていないのだ。


コンプレッサーで残ったゴミ屑を倉庫の外へ吹き飛ばし、籾殻の処分を始める。また、ここ数年全く使っていなかった機器類も一緒に運び出すことにした。


籾殻は例年、田に捨てる。それが来年以降の土の肥料になるのだ。この籾殻が、今回は軽トラ2台分ほどになった。袋詰めし、軽トラに詰め込み、軽トラに乗って田へ運ぶ。この一連の作業を、母は一人でこなしていたという。父よ、何をしていたんだ。なかなかハードワークだ。汗が止まらない。
籾殻をすくい、袋詰め。シートを撤去。畳む。

もはや、機械的に動いているような気分さえする。


最後の籾殻を圃場に捨て終えた時、雨が降り始めた。小雨が気持ち良いくらいだ。


これでようやくシャワーを浴びられるかと思ったが、ペットボトルのお茶を飲んでいる時に気が変わった。犬の散歩を、最後にやってしまおう。これだけくたびれて、ついでに汚れているのだ。最後、犬の散歩程度何をやらない理由があろうか。


リードをつなぎ、長靴はサンダルに履き替え、汗と汚れでぐちゃぐちゃのジーンズとシャツのまま、小雨の降る田園風景へ走り出す。と、散歩の途中で雨が本格化し、土砂降りになってきた。1日で書いた汗を丸ごと押し流すような雨に打たれ、何も考えない境地に入っていく。

小雨から土砂降りの間、30分くらいは犬の散歩をしただろうか。ようやく家に帰り着き、その足でシャワーを浴びて、精米の日は終わった。


翌日は、体の疲れが局地まで行き、一度朝4時に目覚めて眠れないほど感覚がおかしくなっていた。が、どうにかやり過ごして最後に出荷である。


JAへの出荷


約束の日の早朝、6時。フォークリフトが家までやってきた。積み込んだ米袋をJAが運ぶため、また、朝の車通勤ラッシュにリフトが飲まれないため、こんな早朝にやってくるのだという。

かつて、自分の家で稲刈りし、精米までする家は多かったそうだが、この地域では自分の家とSさんの家を入れてたった二件となってしまっている。その二件のため、フォークリフトは朝早くから稼働しているのだ。他の家は、組合に圃場と稲刈りを委ね、出荷までを共同で行う方式としているらしい。ただし、米が混じって美味しくないという。

例年、JAに出荷する分と保有米を分けておくため、保有米は今後、親戚やご縁のある方向けに配ったり販売していくことになる。


これで、一段落。米の出荷まで終え、仏前の父に新米を備えることもできた。


最後の振り返り

こうして、初めての稲刈りを記録してきたこの連載企画も、これにて一段落である。

来年以降の準備は、年末頃までしばらく緊急の用件は無い。

ここまで進めてこれたのは、間違いなく地域の皆さんはじめ、多くの方々の協力によるものだ。

今年一月に父の余命宣告、三月に父が他界し、その間もひたすらトラクターに乗って圃場を耕し、記録を取る等していた。

病床にて、自分の耕した圃場の写真を、父は食い入るように眺めていたと、後に母から聞いたこともあった。

結局、5月連休の田植えを見守ってもらうことなく、88才の大先輩、父の友人であり同僚であるHさん、Sさんのお二人にも協力してもらいながら、とにかく植えた。

冬から春に季節が移るころに、今年はコロナウイルスが日本各地で流行し始め、仕事の面でも大きな変革を余儀なくされた。

実家と京都の往復も、決して楽なものではなかった。

心身ともに疲労困憊、さらに人生の大きな転機も重なり、目まぐるしく状況は変わっていく。

家を継ぐ責任、地域に対する責任、親族一同に対する心配り、仕事に対する責任と、一度にあらゆる側面の責任が重なり、押し寄せてきた。

今年ほど、「田舎の長男」と言う顔を意識したことは無いくらいだ。

一方で、自分は本当はどう生きたいのか?をすっかり見失ってしまう日々でもあった。

こうして、後から振り返るための資料として、11回分も「ゼロから始める実家の米づくり」と題して書き続けてきたが、ようやくそれも一段落。

自分以外の誰かを過度に優先しすぎた日々は、この11回目を書き終えることで終え、自分のための人生の過ごし方を、今後は模索していきたい。

最後に感謝を。

Hさん、Sさんと言うお二人がいなければ、こうして無事に米を収穫まで漕ぎ着けることはできなかったでしょう。本当に、助かりました。ありがとうございました。

京都での仕事上で関わりのある皆さんには、今年が始まって以来ご心配・ご迷惑を多々かけることになりましたが、寛大な気持ちで見守ってくださり、本当に感謝しています。

実家の母・祖母は、父のいない生活の不安との戦いでもあった中、時に無茶振りも自分に投げてきつつ、何より健康で生活してくれていました。細々したJAとの手続きも、実家では母が中心となって進めてくれていました。

そして、この数ヶ月間、妻には本当に助けられました。一度ならず体調を崩し、また、実家の田舎のしきたりに触れながら役割を果たすと言う慣れない日々の中、自分を支えてくれました。これが独りでは、決して乗り越えられなかったように思います。

そして、この米づくりを成立させてくれたすべてのものへの感謝も感じています。土、微生物、昆虫、獣たちの人間とは違った営みが、自然と共にある米づくりには不可欠でした。

また、それらの多様ないのちが息づいている豊かな生態系がなくては、やはり米づくりは成立しません。この生態系を守り続けてきた地域の営みにも、感謝したいです。

そして、この土地を守り続けてきた先祖代々の営みにもまた、感謝をしたいです。

収穫が終わった時、ふと、

「いのちの繋がりがあれば、大丈夫。生きていける」

と言うメッセージが天啓のように降りてきました。

米づくりは、自分にとって自然との戦いでした。放置しておけば、どんどん自然は人間の生活領域に侵食してきて、雑草を繁らせ、動物たちが圃場に押し入り、天候によって作物の生育も左右されてしまいます。

そんな中、人は技術の発達させ、コンバイン、トラクター等のテクノロジーの粋を駆使して、ようやく自然に立ち向かい、自然の恩恵を米として受け取ることができるのです。

この経験は、ただ辛いだけではなく、今後の人生の指針ともなるような天啓を与えてくれた、かけがえのないものとなりました。

生憎、現状はじっくり文章を眺めて推敲すると言うより、初期衝動が薄れない内にまず書き出してしまおう!と言う意図の元書かれているため、文章としてはまとまりがなく、読みづいらい点も多々ありますが、ここまで読み進めていただいた皆さんには、それをご了承いただけたのではないかと感じています。

「いのちの繋がりが大切にされる社会」が、小さな一歩から広がっていくことを願いつつ、この辺りで筆を置きたいと思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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