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なぜ天動説は支持されたのか ⑦ガリレオ

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〇ガリレオによる望遠鏡の発明と宗教裁判


ガリレオ(1564-1642)は実験を通じてモデルを立証するという実験科学の祖として位置づけられる。ピサ大学、パトヴァ大学の教授として物理や天文など幅広い分野で功績を遺す人物だ。


彼は後述するケプラーとほぼ同年代の人で、地動説を支持するもの同士としてケプラーとの親交もあった。ケプラーが、惑星軌道の関係性を確立し、理論面で地動説を決定的なものにしたのに対して、ガリレオは望遠鏡を発明し、木星衛星の発見や金星の満ち欠けを発見するなど観測の面で地動説を裏付けた。
さらに月に凹凸があること、太陽に黒点があることなどを発見し、アリストテレスに由来する月や太陽は完全な球体であるというモデルに終止符を打った。


ガリレオによる月のスケッチ
月にクレーターがありデコボコの星であることを報告している

コペルニクスの記事で紹介したが地動説は当初異端視されていなかったのだが、コペルニクス没後70年以上たったガリレオの時代までに教会の中で変化があったようだ。1600年には哲学者であり修道士のジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)がローマで異端とされて処刑されるが、異端の理由の一つとして彼が地動説を信じていたことがあげられている。

ガリレオは地動説に言及したことで1616年に1回目の宗教裁判にかけられ、地動説への言及を制限される。このころにコペルニクスの「天球の回転について」も禁書扱いとされる。

1630年には1回目の裁判の判決にもかかわらずガリレオが「天文対話」にて地動説を発表する。「天文対話」では多くの観測結果から地動説が正しいことを議論した内容になっている。また実際には異なっていたのだが、潮汐現象を地球が運動していることが原因であるという野心的な主張も行った。

天文対話の口絵
天動説信者、地動説信者、中立の3人が対談する形式で地動説と天動説を紹介する。登場人物のひとり、天動説信者で単純な性格のシンプリチオが教皇をモデルとしているのないかと勘繰られたという説もある。

ガリレオはカトリック教会の影響が強かったイタリアにいたために宗教裁判にかけられてしまった節もある。ケプラーは神学者になるためのドイツの大学の授業でコペルニクスの地動説を習っているし、ケプラーが地動説を支持したことによって特に弾圧を受けたという記録はない。プロテスタント色が強いドイツでは地動説はそこまでタブー視されてなかったようだ。

「天文対話」の発表によってガリレオは2回目の宗教裁判にかけられ軟禁処分とされ、ガリレオの著書も発禁処分となってしまう。
ガリレオの宗教裁判の影響は大きかったようで、デカルトが地動説に関する発表を控えるなどの動きがあったようだ。ただし、ガリレオの宗教裁判に関しては有名になりすぎたため尾ひれがついたエピソードが多く、そもそも宗教裁判にかけられた内容や回数に関しても議論が多い。

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