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教員になるまでと今の私 ②

4.初めての子育てがスタート@香川県高松市

 前回からの続きです。
初めての妊娠、知らない土地、知り合いゼロの状態での妊婦生活がスタートしました。幸い官舎生活だったので、同じ官舎の夫と同じ職場の奥様たちを頼ることができました。また、夫たちは全国転勤をするので、関東出身の奥様も多く、同じく香川生活が初めての方もいらしたので何かと心強かったです。
 そしてせっかくの妊婦生活を楽しもうと、マタニティヨガや両親学級などに参加することにしてとりあえず少しずつ香川での子育てを開拓することになります。
 ただ、残念ながら、私はあまり元気な妊婦ではなく、安定期に入ってすぐの引っ越しでかなり無理をしたこともあり、常に切迫流産と隣り合わせの日々で自宅で安静にする日も多かったのです。そんな中、体調が良い時に参加したマタニティヨガで知り合いになった人生初めてのママ友ができます。彼女とは予定日が2ヶ月違いでヨガの帰りにお茶したりしながら、少しずつ高松ライフを楽しみ始めました。その友人からmixiを紹介され、初めてのSNSに挑戦したのもその頃で、SNSを使って少しずつ高松での生活を記録し始めることになります。
 高松での子育ての詳細はまた違う形で紹介していきます。高松の子育てライフは本当に幸せでした。

5.今話題の育休中のリスキング

 妊娠する前は、教師サークルで学ぶことが楽しくて仕方なかったので、妊娠してからも当然のように育休中は学びの時間にしようと思っていました。
 しかし、私はアクティブに動ける妊婦ではなく、常にお腹の張りと闘いながらでしたので、まずは一人目の妊娠中は無事に出産するための準備で精一杯でしたし、とにかくお腹の赤ちゃん最優先で穏やかに過ごすことにしていました。多くの人が今回の岸田首相に反論していたように、妊婦、子育ての産休育休期間は、ただの休暇ではありませんし、ましてや肉体的にも精神的にも不安定ですし、「暇なのだから学べるだろ?」みたいな感覚がもしある人がいたとしたら全力で反論したくなります。それでも妊婦や育休期間を有効に使おうと思う気持ちがある女性は多くいるとは思います。しかしそれをできる人とできない人がいるということ、したくてもできなくて辛い気持ちになったり、リスキリングできなかったことで仕事復帰が不安になってしまう育休中の女性がいることは理解いただきたいことです。
 とにかく身体が元気な人もそうでない人も初めての子育てと奮闘するわけです。私の夫は仕事が忙しく、休日出勤や朝まで残業を余儀なくされるほどでしたので知らない土地でのワンオペ育児は想像を絶する大変さでした。
 実は、そんな私も実際に妊娠出産をするまでは、リスキリングには前向きだった1人でしたが現実には厳しい状況でした。実際そのことで落ち込みもしました。しかし、子育ては少しずつ変化をするもので、1人目はまったく無理だったことが2人目の育児ともなると少しずつ気持ちに余裕ができました。時間的に余裕はないのですが、経験というのは大きいもので1人目で不安であたふたしていたことが、2人目は少し落ち着いて夫婦で対処できるようになっていきました。また、香川県の子育て支援の充実したシステムがあったことも大きかったです。二児の出産、子育て3年目でやっと香川の教員サークルに参加したり、中高以外に小学校の教員免許と小学校英語指導者資格:JSHINE取得のための通信教育を始めました。

6.東京に戻り就活とリハビリの3校目

 楽しかった高松生活、まだまだ住んでいたかったのですが、東京に戻る転勤は4年目にやってきます。
 転勤の辞令が出たのは7月。息子がせっかく4月に幼稚園に通い初めて4ヶ月たち、夏休みに入ったばかりの時でした。(香川県は3歳になる年に幼稚園に入れる、つまり4月の時点で2歳児でも保育園ではなく幼稚園に入れるという魅力的な子育てシステムがありました。)幼稚園のみんなにお別れもできず、8月1日付の異動に合わせて引っ越しました。
 東京に戻り、少し生活が落ち着いたあと、予定通り仕事復帰を目指して就活を始めると、間もなくして公立高校の病欠代行の仕事をいただきました。とりあえず1ケ月ごとの更新で最大4ヶ月、週に2日だけということで気持ち的にはリハビリのような感じのコマ数でしたが、久々に教壇に立つとなるとわくわくしました。休んでいた間に色々と授業でやりたいと思って妄想していたことなどが頭をグルグル回り始めて久々の授業準備やプリント作りが楽しくて仕方なかったのです。とにかく心を込めて生徒に向き合いました。当時、今以上に保育園の待機児童は深刻で、週2日勤務で子どもたちを預ける保育園は全くなかったので、勤務日の週2日は両親に自宅か実家で子どもたちをみてもらいながらの復帰となりました。
 病欠代行のクラスは、なんと私が働き始めた時点でその年度で3人目の代行でした。見た目はかなりやんちゃな子たちで、代行が定着しなかったようです。生徒曰く、私の前の2名の先生は、生徒を制御できず、ギブアップしたというのです。生徒が言うことなので半信半疑でしたが、英語科の主任の先生も校長も同じようにおっしゃっていました。そんな大変な子たち?だったのかはわかりませんが、なぜか私とは波長が合ったようで、授業のスタートでかけていた洋楽も好評で、生徒からリクエストが出たり、授業の内容も苦手意識を変える仕掛けをいくつかしていったこともあり、少しずつ心を拓いてくれて、1ケ月経つ頃には「先生も辞めちゃうの?辞めないで、やっと英語わかるようになってきたから。」「俺は高校卒業したら就職するけど英語は使えるようになりたいんだよ。」「英語は必要だから勉強したい」とか彼女へのクリスマスプレゼントの相談とか(英語はもはや関係ないですが)、嬉しい反応に手ごたえを感じていました。しかし、病欠代行は、病気の先生の回復をみながらの代行なので、1ケ月ごとの更新でした。つまり、私が続けたくてもその先生が復帰されたら私は終わりだったのです。結果としてご回復が長引いてしまったので、3月末まで受け持つことになりました。見た目はかなりやんちゃでしたが、英語は必要だと感じてくれていたし、何より前向きに頑張れるかわいい子たちだったので、この3校目の勤務先での出会いは私の素敵な経験となりました。
 4月からは、香川県に行く前に勤めていた学校に戻るお話もありましたが、心機一転、また新たな場での挑戦を選びました。それが現在の勤務校で今に至ります。
 前回と違うのは、子育てしながら、保育園に預けての仕事復帰ということです。それはそれは3ケ月の病欠代行の週2日の勤務とは全く違い、日々疲弊していくことになります。
 次回につづく・・・・


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