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書き続けられたら、きっと私、死んでもいいわ #幸せをテーマに書いてみよう

まずはじめに、今回この企画に参加させていただいたことに、感謝します。あきらとさん、ありがとうございます。

青い鳥をさがして

童話に、幸せの青い鳥を探す話があった気がする。幸せの青い鳥は結局身近にいたという結末だったと思う。

満たされない満たされないといつも言っていた少女だった。親にもきょうだいにも同級生にも先生にも、皆に不満があった。私に甘くないものは皆嫌いだった。皆嫌いで、賢い自分にふさわしくないと思っていた子どもだったから、遠くの学校を受験したり、中学の同級生がほとんど行かない進学校に入学したりした。

高校に入学しても、あまり楽しくなかった。当然同級生の偏差値は上がったので、それなりに楽しいのだが、クラスは楽しくないし、部活もおもしろくなくて、一年もしないうちに幽霊部員と化した。(言い訳しておくと、親が辞めさせてくれなかったから仕方なく幽霊部員をしたのだ。)思い返せば当然のことだ。

だって私が好きなのは私に甘い人で、私のこと褒めてくれる人で、他人は私の賢さを示すための道具でしかなかったのだから。わかりやすく言えば、主人公のためのモブ。そんな考え方をしている人間が、健全な関係を築けるはずもない。築いた数少ない人間関係の多くは消滅か破綻を辿った。糸は二本しか残っていない。

結論から言うと、私の青い鳥は、身近になんかいなかった。

満たされないからいろんなものに逃避した

それで、満たされない少女が大人になってしたことは、遊ぶことであった。旅行にグッズのコレクションに書籍の購入に読書。遊ぶというイメージからは少し遠いかもしれない。遊ぶって言ったらやっぱり、性的な意味での遊びや、少し危ない遊びを想像する人もいるのだろう。

それでいてリアルな人間関係と言えば、何もしないことで問題なく推移していた。それを問題ないというのか、薄いというのかは人それぞれだと思う。

私は何を求めていたのか今となってはわからない。バイト代で好きなものを買うのが楽しかったのかもしれない。

逃避した結果、その瞬間は満たされるのだけど、またすぐに満たされなくなり、次の逃避が欲しくなる。満たされた感覚が持続しないのだ。

書き続けて、生きていた

満たされない満たされないと摩耗していくなかで私がやり続けたことは書くことだった。それは物語であったり、このようなエッセイであったりした。

苦しいからこそ、書く。

苦しくなくても、何か書きたくて、書く。

今も私は書いている。エッセイが掲載されているのもそうだし、別名義で応募し続けている小説もそうだし、このnoteもそうだ。書かずにはいられない。だから、書いている。

書かなければ、私は生きていけない。

私は話すのより聞くのより何より書くことが得意で、好きだから。話す能力のあまりの不自由さには泣けてくるほどだけれども。

だから、書き続けられたら、きっと私、死んでもいいわ。

執筆のための資料代にさせていただきます。