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私が教員免許を取らないと決めた理由。

教師とは

教員免許のことを考えると、いつかの社会科の先生の言葉を思い出す。

「教師は大卒しかいない。特殊な職場だ」

これはアルバイトをするようになってから痛感している。飲食店のアルバイトには高校生も短大卒も大卒も大学生も専門学校に通っている人もいた。でも教員免許は大学でしか取れないからいわゆる四大卒の人しか職員室にはいない。

先生に専門性が要求されるのは当然のことだから、大卒しかいない職員室を特殊だとは思うけれど変えるべきだとは思わない。ただ、大卒が当たり前だからこそ、見えない部分もあるのだろうとも思う。

そして言葉を変えて何度も幾人もの人に言われたのが、

「先生というのは基本、その教科ができた人達だ」

ということだ。

そりゃそうだろ、と思う。英語のできない英語教員なんか使い物にならないじゃないかって。でも、それって、すごく、怖いことだ。英語のできる人は英語のできない人の気持ちがわからないから。わかろうとしても、わからないものだから。わからない気持ちがわからない先生が教壇に立っている、この現状。

そんな教育現場に入る機会が、ぽんと私の目の前にもやってきた。大学一年の春だ。いわゆる、教員免許を取ることもできますよ、という大学からの案内だ。私の通った大学では、ガイダンスで一応その説明を皆にしてくれた。

しかし元々教員免許を取る気のなかった私は、そこでやはり取らないと意思を固めたのだった。

私のいた学部は、教育学部ではなかった。だからか、教員免許を就職の保険のように扱う学生が多かった。そういう大学教員も少数だがいた。

そんな状況で私は教員免許を取らなかった。

保険で取った教員免許はいつか逃げ道になる

先程も書いたように、思うような就職ができなかったときのために教員免許を取るという学生が私の周りには非常に多かった。それも道理だ。教師が第一志望なら教育学部に行っているだろう。

教員免許を取るのは簡単ではないが、教育学部でなくても教員免許を取れることに大学に入ったばかり、つまり数ヶ月前まで高校教師にお世話になっていた私は、既知のこととはいえ失望を隠せなかった。だってそんなの、勉強すれば私でも先生になれてしまう。それはおかしいことだ。(この感覚については後述する)

教員免許を取るのだという同じ学部の学生に話を聞くと、「まあ、保険かな」とか、「親が取れって言うからさ」とか、「念のため」という答えが返ってきた。繰り返すが教育への情熱があるなら教育学部に行っているだろうからこれも当然のことだ。最初から教師を目指していなかったからいい先生になれないわけでもない。動機が何であれ自分にとっていい先生になってくれれば生徒はそれでよいのだ。その実感もあった。でも、やっぱりその動機には失望した。

就職に失敗したときのための保険という学生に対し、私はこうも思った。

教員免許は就職がうまくいかなかったときの逃げ道になるんじゃないか、と。

私はそのとき絶望的に教師に向いていないことを自覚していたので、その逃げ道だけは、作ってはならないと悟った。

塾講師はできても教師にはなれない

教師に向いていないことに自覚があるのに、アルバイトで塾講師をした。以前のnoteで書いたように、私には"勉強が多少できる"くらいしか使える武器がなかったのだ。消去法というか、見た目や視力を理由にアルバイトを断られ続け、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるとたくさん応募したなかでそれがヒットした、それだけのことだった。

教えたのは英語と生物。主に英語だった。某有名塾のような名物講師ではないし、ちょっと見た目が人と違うだけの普通の英語講師だったと思う。教えること自体は苦ではなかった。高校までで"人に勉強を教える"ことをそれなりに経験していて、そのおかげか、評判も悪くなかった。

その経験を経てもなお、いや経たからこそ、私は教師になるべきではないと思った。

先生は基本的に勉強ができない人ではなく、できる人がなるので、できない気持ちやわからない気持ちが理解できないと書いたが、私は特にわからないのだ。どうしてできないのだろう、とどこかで思ってしまう自分がいた。それでもこれを説明することでお給料が発生しているのだから、と必死にわかってもらおうとしていたけれど。それでも、わからない気持ちはわからない。平均以上にはできるのに、自分が平均だと思っているという、そんな傍迷惑な性質にはまだ気づいていなかったが。

そして、これが大きな理由でもあるのだが、私は"勉強を教える"ことはできても、"学級運営をする"ことはできない。高校時代、勉強を教えるのはうまいがクラスではとても評判の悪い先生がいた。私も先生になったらきっとそうなるだろうと思った。専門分野への情熱は抱けても、生徒には興味すらもてないから。勉強という言語でしか、生徒とコミュニケーションできないから。

そこを離れて、学校祭だの体育大会だのを生徒と一緒に頑張れるとは思わない。私はそういうものが大嫌いで大学のことを好きな理由にそういうものへの参加義務がないことを挙げていたくらいだったのだ。

専攻の勉強以外したくなかった

勉強すれば私でも先生になれてしまうなんて書いたけれど、教育学部でない学生が教員免許を取るのは大変なことだ。教育学部であれば、普段の学業が教員免許のためのものであるけれど、そうでないなら専攻の他に教員免許のための勉強もしなくてはならない。また教員免許といっても、生物や化学といった特定の科目ではなく、理科になってしまうのだ。つまり、化学専攻でも物理や地学の勉強をしなくてはならない。

物語では生物教師とか化学教師とか書いてあるから、家庭科教師みたいに、その教科だけ教えられればいいのだろうと思っていたけど違った。化学教師だって生物を教えられなくてはいけないのだ。

私は、専攻以外の勉強をしたくなかった。学部の方針で専攻以外の科目も基礎的なものは取ったけれど、これがさらに深まってついていけるとも思わなかったしやろうとも思わなかった。実際に専攻の勉強ばかりして卒業した。

教員免許は、取らないと決めた

極めつけに、教授の言葉があった。「教職なんて取ったら夏休みがなくなるから半端な覚悟で取るものじゃない」と。半端な覚悟すらもない私は早々に教員免許を取らないことを決めた。

教授は実習と教員免許の講義の日程が被っていることに抗議し続けている人だったので、そもそも教員免許に対してよい感情はなかったと思うが、正しい言葉だったと思う。

時々怖くなる

それでも、もし私が勘違いして教員免許を取ろうとしたら、取ること自体は不可能でなかったように思うのだ。勉強すれば、私のような不適格者でも、中学高校の教壇に立ててしまう。それはとても怖いことだ。

私が中学高校時代いいと思った先生達はそのほとんどが教育学部ではなかったということも書いておくけど、でもやはり教員免許は就職の保険ではないし教師は仕方なくなるものでもないと思う。

教育改革が叫ばれ続けているが、私のような不適格者をしっかり排除するしくみを教員免許のカリキュラムに作るとか、学級運営と勉強を教えるのを別にするか、した方がいい。


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アルビノのライター/エッセイスト。筆名。テーマ:マイノリティの現実。ジャンル:セクシャルマイノリティ、アルビノ、発達障害、毒親、女性差別など。かがみよかがみ公認ライター。webライター/エッセイストをしながら"ゆっくりする"生活をしています。お仕事依頼はTwitterのDMまで。

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