佛教大学通信 法然の思想と〜レポート(浄土宗と沖縄のエイサー文化)

 仏僧袋中上人とエイサーについて、授業で聞いたのをきっかけに「浄土宗とエイサー」に関心を抱いた。というのも、現在の沖縄では旧盆以外にもエイサーを楽しむイベントが行われている。なぜ、そうなったのか本稿では触れないが、本レポートでは、「浄土宗とエイサー」に焦点を当て論述をしていきたい。
 日本におけるエイサーに関する研究は1990年代以降のものとなっていることを前提とする。そのため、核心的な資料があると断言することは不可能だろう。なぜなら、沖縄戦で無くなっている可能性があるからだ。つまり、エイサー研究は極めて困難な分野と言えるだろう。限られた資料を頼りに様々な角度から分析することによって、構築されたと考えるのが妥当だ。
 まず始めに、浄土宗の仏僧袋中上人が琉球に念仏を持ち込んだとしているのは、“山内説”というものである。1603年。日本本土から琉球に念仏を布教するため、念仏の教養をわかりやすく翻訳し、多くの琉球念仏をつくりだしたという。その後、18世紀後期には、琉球王朝の象徴である首里城がある地域あたりで盆祭りに念仏者を招いていた。そして、念仏歌を歌わせ、精霊を供養する風習が定着し始めたという。念仏者は万歳踊りをし、家々をまわる京太郎(チョンダラー)だ。
 ちょうど、その頃、楽人によって継親念仏をもとに三線伴奏付きの歌がつくられた。盆踊りの最初に歌われるエイサー節だったとされている。しかし、 “山内説”を継承する宜保は、盆踊りであるはずのエイサーに使われている曲の歌詞が、恋愛に関するモーアシビー歌(民謡など)になっていることに注目した。一方で、多くの地域のエイサーは、もともとが念仏歌だ。それが根拠となるのか、個人的には微妙なところだが、山内、宜保は、これらを根拠に仏僧袋中上人が沖縄にエイサーを広めたとしている。
 しかしながら、袋中上人がはじめて琉球王朝に念仏をもたらしたということに疑念を抱き、批判しているエイサー研究者もいる。池宮によると「念仏歌を唱える念仏聖が人形回し(チョンダラー)として薩摩藩の琉球侵略(1609年)よりかなり前に来琉していたことは諸家の見解の一致するところであり『由来記』(の編集)が琉球の念仏を浄土宗の袋中上人の作であると考えたのは、念仏に「浄土宗の文段」などの表題があり、詞章にも「阿弥陀の浄土」エイサー物語などの言葉が入っているがゆえに、念仏と浄土宗の袋中を結びつけたであろう」と述べている(塚田,2019,Kindle版No.656)。また、『由来記』の記述に対する批判は、沖縄宗教史研究の知名定寛もおこなっておる。
 さらに、知名の分析によると、念仏踊りは尚寧王(15809―1620年)、尚真王(1477―1527年)、尚泰久王(1454―1460年)の時代には、盂蘭盆で行われていた可能性があるという。そして、「浦添ようどれ」の石厨子は尚巴志王時代の製作とされており、その石厨子に阿弥陀三尊像が彫刻されている。そのことから知名は、尚巴志王の時代からすでに念仏を唱える浄土宗信仰が受容されていたはずだ、と主張している。
 山内、宜保、池宮、知名の誰の主張が正しいのか、素人の私には、判断が難しい。とはいえ、仏教にも様々な宗派があるが、沖縄に「浄土宗」を持ち込んだ人がいることだけは事実だと言える。
 今日のエイサーは、旧盆に行われる道ジュネー以外にも観光や地元民を楽しませるためのイベントと化している。本来ならば、念仏を唱えながら家を回っていた京太郎(チョンダラー)は、リズムにのりながらエイサーを見ている子どもに飴玉を配る場面を見た。さらに、創作エイサーが活発化したことにより、伝統的な地域のエイサーの存在が薄れつつある。つまり、宗教的な意味合いを失ってきていると言えるのではないだろうか。
 仏僧袋中上人が琉球にエイサーを持ち込んだのか、その前から浄土宗が定着していたのかは、今のところ何とも言えない。しかし、時代とともに進化し続けるエイサーから宗教的な意味合いが薄れていくのは、懸念すべき点である。

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